友方=Hの垂れ流し ホーム

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 雑記

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洗浄

2003年09月23日

長らく道元の正法眼蔵を読んでいて、もちろん原文には歯が立たないから石井恭二訳で読んでいるわけだが、その第五十四に「洗浄」というのがある。何かというと須らく清潔を旨とせよということなのらしいが、全体に難解な仏教理念のなかにあってそこだけ妙に浮いているというか、平たく言えば排便の作法について書いてあるのだ。それが実に細かく書いてあって面白い。ほかの項目にも洗面の作法だとか至極日常的なことについても書かれていたりするから、殊更それが奇妙ということはないのだが、そこだけ見るとやはり笑える。

それら作法について道元は大比丘三千威儀経等を參照して解説しているのだが、用を足したあと水で洗うときにやたらと零すなとか、したくなってから慌てていかず余裕を持っていけだとか、無理に息むなとか、お喋りするなとか、歌を歌うなとか、鼻水や唾を周囲に散らすなとか、壁に落書きするなとか、何か中学の生活指導のようなことまで細々と書いてあるから、いつの時代もこういうところは変わらないのだなと何だか親しみを覚えもする。

必ずしも便所があるわけではないからそのときは川辺ですることになるのだが、泥で団子を作って(七個一列として二列に並べておくらしい)用を足したあとそれで陰部を洗い、手を洗うのだという。

これは注のほうにあったのだが釈迦の十大弟子のひとり舎利弗(しゃりほつ・シャーリプトラ)の逸話がまた面白い。清浄を願うひとりのバラモン僧がいたが、あるとき釈迦のところで舎利弗が用を足したあとに上に書いたように泥団子で洗浄する樣子を仔細に観察し、それに感銘を受けて仏教に帰依したというのだ。人が用を足しているのを見ているのもどうかと思うが、用便のあとの始末に感銘を受けるというのも何だかちょっと笑える。

いやこれは笑い話ではなく、道元ちゅう偉い坊さんが垂れたありがたいお説教なのだから謹聴せねばならぬところなのだが、笑ってしまう私に覚りは縁遠いということか。

『現代文 正法眼蔵4 石井恭二』(河出書房新社・1999年)

消えちまえ

2003年09月18日

実に四ヵ月振りの更新なのだ。何がって連載小説がだ。月一くらいで更新せねばと思いつつ、新作の執筆等に苦闘する折からどうしても後回しになってしまう。まあ、でも、更新したよとりあえず。

ホントは「階段の軋み」を先にしたかったのだ。というのもこっちのほうがさらに遅れて半年滞っているからなのだが、挿画が全然描けぬから、次回で終わるというのに未だupできぬ状態。本文だけ先にという手もあるが、やはり最後なのだからピシッと決めたいもので、本年中にはたぶん更新できるかと・・・

ところで「消える前」だが、連載第八回は「5 小セミナーという名の一大乱交パーティー(前)」ということで、神聖チエミ教信者らの催す老若男女入り乱れての壮絶なエロスの饗宴と相成るわけで、主人公紀子もその輪に加わり散々に嬲り者にされるという実に非道な展開なので、お子様にはちっと刺激が強いかもしれませぬ。

というのは嘘で、セックス教団とはいいよう教義としてのセックスなどほとんどないのが実体なのだ。とはいえ性描写は相応にあるのだが、教団とは関係のないところでのセックスが主だったりする。べつにセックス教団を描きたいわけではないからそれでもいいのだ。

しかしこの小説、読んでいる人っているのだろうか?

間山

2003年09月13日

間山は大学のときの同窓で、あまり人好きのするほうではない私とも気が合い、長らく交友がある。といって年に一、二度飲みに行くくらいで、しかも誘うのは決まって間山のほうからだ。そんな私を見限ることなく誘いつづけてくれる間山には感謝している。

間山には腹違いの妹がいるらしい。行きつけの飲み屋でたまに一緒になる間山の父の嘗ての同僚の加賀谷氏に聞いたのだという。間山の父と飲んでいるところを数回見掛けたことがあり、挨拶くらいは交わしていたから互いに顔は見知っていた。定年後間山の父はほとんど飲み歩くこともないが、加賀谷氏には今でもその店で会うことがあり、たまたまひとりで訪れた折に会って同席したのだという。

写真を見せてもらったともいうが、そのとき加賀谷氏は間山の顔を嘗めるように見つめながら、どことなく似ていなくもないとそう言ったそうだ。ウソのような話で半分間山は疑っているが、父の浮気が元での離婚話など数え切れぬほどだから強ち可能性がないとも言えない。その日は全然酔えなかったと間山は私に言った。

もしそれが事実なら一度は会ってみたいともいうが、そんなこと切り出せば揉めるに決まっているから確認のとりようもなく、ひとり悶々として仕事も手につかないのらしい。

とはいえ加賀谷氏はなぜ間山にそれを告げたのだろう。誰かにその事実を告げることで自分ひとり抱えている荷をいくらかなりと軽くしたかったのでもあろうか。

一緒に行っては貰えまいかと頼まれたときには面喰らったが、酒も入っていたせいかその場の勢いで嫌とも言えず了承してしまった。断わればよかったと後悔している。もうじき間山がここにくる。今ならまだ逃げられる。どうしようかと尻をモゾモゾさせているうちに「悪いな」とはや緊張ぎみの声が掛かる。

ところで新作小説すでに131枚に達したが、ダメだ、全然終わらない。終局がてんで見えてこない。どうしよう。どうしようたって書くしかないのだが、書けば書くほどに予期せぬ方向に転がっていって手もつけられぬ状態で、そんな着膨れみたいになってしまって大丈夫かと危惧する毎日だ。誰か助けて。

上の文は新作小説とは何の関係もない。念のため。

新旧交代

2003年08月17日

これまで頻繁にフリーズしていたPictureViewerがピタリとフリーズしなくなった。これは恐らくペインタ6を再インストールしたためと思われる。6の再インストールによってペインタ書類のアイコン表示がこれまでの7、8由来のアイコンではなく、6由来のそれに変わったのだが、それと軌を一にしてPictureVieweの動作が安定したのだ。ほかにアップルスクリプトの自動処理も安定したようだ。これは主にサイトに載せるjpeg画像のファイルタイプをペインタ書類からPictureViewe書類へと変換するために使用しているのだが(ダブルクリックでペインタが起動しちゃうから重くて面倒なのね)、あるときを境にして(恐らくペインタ7のインストール)不安定になったのが治ったのだ。

OSがアイコンの表示等にペインタ7だか8だかのデータを参照しなくなったことで安定したのだとすれば、Mac OS 9下でのいくつかの不具合がペインタ7、8に起因すると予想され、Mac OS 9とペインタ7、8とがいかに相性が悪いかということが分かる。それはとりもなおさずMac OS 9下でのペインタ7、8の使用が絶望的だということを意味し、そしてこれはMac OS 9下でのペインタ6か、Mac OS X下でのペインタ8かという二択に収斂する問題になる。古いOSや古いアプリが淘汰されるのは仕方ないとしても、新しくなったからといって必ずしも使い勝手が良くなっているとはかぎらないから、一朝一夕には解決できぬそれは問題でもあり、頭を悩ませている。

ペンタブの問題も相変わらず解決していないし、このままMac OS 9を使いつづけられるわけでもないだろうから、そろそろ見切りをつけねばならない時期なのかもしれないが、Mac OS X 10.2てどうなのだろう、いくらか使い良くなったのだろうか?

「おいおいそんなのオレに訊いたって分かるわけねえだろう、グダグダ文句言ってる暇があったらよ、思い切って移行しちまえよ」他人事だと思って無責任にほざく月島は、もう幾日も風呂に入らぬような脂ぎった頭髪を掻き毟ると、掻き毟った自身の指先の臭いを嗅ぎ、Yシャツの裾にその指先を擦りつける。Yシャツの裾は汚れ黒ずんでいた。

「6がそんなにいいのかねえ、過去に拘泥してるのって端から見てて不様だぜ」嘲るように月島は言い、「弘法は筆を択ばないんじゃなかったっけ」と嫌みたっぷりにつけ足す。月島はオレの煙草を吸っていた。いつもそうだ。何やかや言って人のモノを横から掠めていくのがこいつのやり口で、油断していると金まで取られてしまう。もう三万くらいは貸しているが一円も返ってきてはいない。迂闊に返せとも言えないのは問答してるうちにさらに金を貸してしまう羽目になるからで、なぜそうなるのかオレにも分からぬが、こいつと話してるといつの間にかそうなってしまう。油断のならないヤツだが、どこか憎めないところがあるから適わない。これで仕事ができないただのお調子者だったら少しは優越感にも浸れるのだが、滅法仕事ができるときてやがるから癪に触る。

オレの煙草を吹かしながらいつまでも居坐っているから金の無心かと警戒していると案の定飲みに行かないかと誘われる。どうせ払わないでばっくれるに決まってるからきっぱりと断れば「つれないなあ、純ちゃん。いつからそんな堅物になっちゃったの」と馴れ馴れしく身を寄せてきて、仕事熱心なのもいいがそんなことじゃあ時流に取り残されちまうぜとオレの肩を思い切り叩き、じゃ待ってっからと言うと月島はオレの煙草を揉み消し、軽快な足取りで出ていった。

あんな口先だけのようなヤツがどうして仕事ができるのかオレには理解不能だったが、現実に月島はオレより仕事ができた。オレは些事に拘泥しているのだろうか。いや、そんなことはないはずだ。何が何でも新しくなきゃいけないなどということはないはずだ。6だってまだまだ使えるさ。オレだってまだまだ使えるさ。たぶん。いや、しかし・・・

ところで笙野頼子氏の新刊『水晶内制度』(新潮社)が出た。危うく買いそびれるところだった。挙って買うべし! 一家に一冊。

8がダメならもう・・・

2003年08月05日

先日購入したペインタ8が宅配で届いたので早速開封してインストールした。7でのペンタブ使用時における描画の遅れが解消されることを願ってアプリ起動、試し描きしてみる。

起動してまず驚いたのはインタフェイスがすっかり様変わりしていたことだ。フォトショライクになっていて何がなんだかよく分らず、使いづらいというのが正直なところだが、それはまあ馴れの問題だからどうでもいい。そんなことよりペンタブで、これが使えなきゃ何のためのペインタか分らないし、至宝となるかゴミと化すか、すべてはそれに掛かっている。

恐る恐るペンを取り、ちょっと浮かして動かしてみるが、どうも変だ。やはり動きが数秒遅れている。7のときと何ら変わっていない、いやそれどころか悪化している。ペンタブのみならずマウスでの描画も遅れるし、ただキャンバス上を移動させているだけでも数秒の遅れが出る。ただこれはブラシゴーストを無効にする設定にしたら解消された。それでも描画の遅れは解消されず、ペンツール以外のツールでは正常に動作するのだが、ペンツールのときにのみ遅れが出る。なぜこんなことになるのかまるで分らない。OS 9だからなのだろうか、オレのマシンのみの現象なのだろうか、このアホなマシンの中でだけ悪さしていてほかにこのような事例は存在しないのだろうか。そうとすれば修復の余地はあるはずだが、原因がOSにあるのかペンタブにあるのかペインタにあるのか、あるいはそれ以外の何かとの絡みでおかしいのか、それが不明だからどうにもならない。

いずれにしろ致命的で、まったく使い物にならない。前にOS Xでは異常なかったと書いたが、その後OS Xでもペインタ7において同様の不具合が起きることが判明したからあるいはこれもと危惧されたが、ざっと試した範囲ではOS X下でのペインタ8はスムースな描画が可能だった。とはいえOS X自体が使い勝手が悪いので移行する気にはなれないから、今後もペインタは6を使うしかなさそうだ。それともペンタブのほうを替えてしまったほうがいいのだろうか? ハードを替えてもドライバが変わらないとすれば改善は期待できないようにも思うがどうなのだろう。

いや、これは誰かの陰謀だ、そうだきっとそうに違いないお前の陰謀だろう図星だろうが何とか言ってみろとそうヒロシが問いつめると、それまではあとかうんとか煮え切らぬ態度でゴニョゴニョと濁していたのが急にもの凄まじい形相で怒りをあらわにし、ググゥアと雄叫びめいた叫びを叫んで猛然と突進してくる。まさかそんな挙に出るとは思わぬから油断していたヒロシはその決死の体当たりを真面に食らって伸びてしまい、意識を取り戻したときには辺り一帯もう薄暗く、横たわるヒロシの四囲は悉く闇に閉ざされてはきとした輪郭さえ捉えられぬから変だと仔細に眼を凝らせば、どこか知らぬ薮のなかと思しく、意識を失っているあいだに拉されたのに違いないとその危機感からゆっくりと身を起こそうとするが両の手と両の足を縛られていてゴロリとまた転げてしまい、その音に気づいたらしくのっそりと右手の薮のなかから現れいでたその男は細長い光るモノを懐から覗かせている。

何だよ脅かすなよ冗談は止してくれお互い大人じゃないかこれが分別ある大人のすることかと少しく声を荒げれば、忍び笑いに男は笑いながらすいとその懐の光るモノを取りだして何もいわずヒロシのほうへ翳してみせ、それが何か自慢の宝物をでも見せびらかすような勿体ぶった素振りのためつい食い入るように薄闇に茫と浮かびあがるそれをヒロシは眺め入り、妖しい光を放つその細長いモノをもっと近くで見せようとしてか男はそれをヒロシのほうへさらにグイと差し伸ばし、ああこれならよく見えるなとそう思ううちにそれはもうヒロシの胸の辺りに深々呑み込まれている。

長い長い放尿を男は済ますと仰向けに寝転がったヒロシには一瞥もくれずにまた薮のなかへ分け入り、それきり戻ってこなかった。男の小便の臭いの立ち込めるなか、8がダメならもうお終いだとヒロシは思った。

朝はこなかった。

おまいさん

2003年07月30日

「おまいさん、何してんのさ、もうドン臭いったらありゃしないんだから」

「そうドン臭いドン臭い言うなって、俺だって俺なりに一所懸命やってんだからよ」

「どこが一所懸命なんだい、あたしにゃ怠けてるとしきゃ見えないよ、亡くなった親方が見たらなんて言うかねえ」

「親方のこたあ言うなよ。親方が逝っちまってからこっち、遮二無二やってきたんだぜ、少しゃあそれをよ、誉めてくれたあ言わねえけどよ、でもほら何だよ、分かるだろ」

「分かるもんかい、酒ばかり掻っ食らって何が遮二無二だよ、ぐうたらにも程があるよ、ちったあ清之介さんを見習っておくれよ」

「そら関係ねえだろが、清之介は清之介、俺は俺だ」

「関係ありますよ、あの人はおまいさんの二倍働いてるよ、それこそ一所懸命身を粉にして家族を養ってるよ。おまいさんとは雲泥の違いだよ。あああ何の因果でこんなぐうたら亭主貰っちまったんだろうねえ、清之介さん見たような亭主だったら良かったのに」

「何を! もっ遍言ってみやがれ」

「ふん、何遍だって言ってやるさ! あたしゃ清之介さん見たような亭主が欲しい、病気しても親身になって看病してくれる清之介さん見たような人が亭主だったらいい」

「この野郎、それが亭主に言う言葉かよ」

「おまいさん見たような甲斐性なしが亭主なもんか!」

とまあ、このような言い回しがわりと好きなわけなのだが、如何せん自作小説に使うことができないのでこの場で発散させている次第。

それだけではないのだ

2003年07月28日

小説を紹介して頂いているサイトは実は他にもひとつあって、世話になっているといえばこちらのほうがよほど世話になっているのだが、アダルトな内容が多分に含まれているサイトなのでこれまでリンクはしていなかったのだ。そのサイトの運営理念と愚作の表現形式とが妙な符合を見せているのらしく、言われてなるほどと頷いたものだ。

その説明によれば矛盾ないし相反する二者、ないし三者以上の並置から、異なる全体を生み出す試みなのだそうだが、それが愉楽を求めてただひたすら階段を上りつづける落伍者らを描いた『階段の軋み』に符合しているというのだ。

ほかにも紹介されている作品があるが皆アート系の優れものばかりで、それに比して私の小説はショボいなと気後れを感じたものだ。それでもリンクされて多くの眼に晒されれば読まれる可能性も広がるから紹介して頂くのは大変ありがたく、何よりそのサイトの試みが興味深いものだったこともあり、快諾した次第。その後このサイトは着実に拡大して一大伽藍を築きつつあり、その分益々愚作の卑小さが目に立つようで冷や汗ものだが、それは見ないことにする。

ほかにジャズに関するエッセイめいた短文を寄稿してもいるのだが、これはそちらでしか読めないので興味のある方は是非と宣伝などしつつこれまたマニアックな趣味に走っているから読み手もつきにくかろうと懸念頻りなのだった。

Theater Brain 脳の劇場(http://www6.ocn.ne.jp/~bmline/)

誰かが見ている

2003年07月21日

見ているといって何かストーカーめいた不審人物の徘徊を指すのではないし、霊的な存在の跳梁跋扈に怖れ戦(おのの)いているというのでもなく、況して自意識過剰な被害妄想で不在の敵を仮構しているというのでもない。ウチの小説を紹介してもらっちゃったのだ。嬉しいような恥ずかしいような変な気分だが、抑もそのような形で紹介されることなど全然考えもしていなかったためにそれはもう驚いた。いったいそんなことがあるのだろうか、担がれているのじゃないだろうか、とそんなふうな邪推さえしてしまいそうなほどのそれは驚きで、しばし茫然として頂いたメールの文面を眺めていたような次第。

最後まで読んだらしいということも驚きだが、それを紹介しようだなんて、しかも頼まれもしないのに紹介しようだなんて本当だろうかと文面を読み返すうちに少なからず疑念が擡げてきた。というのも私の書くものといえばそのほとんどが救いのない話だし読みつづけることを拒絶するような難読窮まりない文章だし、抑もファンタジーでもなくライトノベルでもない息も絶え絶えな窓際の純文系という性質上、敬遠されることが多いだろうということは容易に想像がつくからだ。決して人に薦められる体のものじゃないはずなのだ。それなのにどうしてまたそんなものをと思うのもだから無理からぬことで、そんな奇特な方がおられようとは夢思わぬ私なのだった。

自作がどのように紹介されていようと構わないがやはりいくらか気にはなるし本当に本当かどうか確認の意も含めて早速サイトを訪れてみれば、いきなり己が小説のタイトルが眼に入ってきてちょっと面喰らった。やはり本当だった。全くなんてことをしてくれるんだ。いや、私は嬉しいのだ。その文面を見るかぎりこちらの意図をそれなり感じとってもらえたということが諒解できたからで、小説もイラストも低調を窮めている現況において斯かる朗報に接せられたことは本当に嬉しい。それがいい刺戟となって執筆のほうも波に乗れたら尚いいのだが、そうは行かないのが辛いとこだ。現在七十八枚だが、あいかわらず執筆は難航していて活路も見出せていないのだ。先行きが思いやられる。

オンライン小説Love Letter(http://www.netwave.or.jp/~sei-y/osltop.html)

疑惑がいい

2003年07月11日

妻の貴子(仮名)の行動に不審を感じて興信所に調査を依頼した。懸念していた通りの結果を報告されてやはりなと頷くとともに怒りとも悲しみともつかぬ昂りが堰を切って溢れだす。調査報告書を淡々と読みあげる調査員の事務的な態度に内心の激昂は弥増すばかりだがその場では冷静を装っていた。妻を前にしてしかしその冷静さを保てるか否か甚だ心許なく、斯かる一時の感情の暴発は相手を利するだけだとの弁護士の忠言もいつ消し飛ぶか気が気ではない。

臨戦体勢のなか、上辺は実に平穏な団欒が展開されている。団欒とはしかし常にそのような危機を内に孕んでいるものの謂いではなかろうか。抑止力としての危機が、団欒には不可欠なのではないだろうか。危機を回避せんとしてその上辺で演じられるものをこそ「家族」というのではないだろうか。

ただ危機は事実である必要はなく疑惑であれば充分で、その甘美且つ謎めいた響きが人をしてその虜と為さしめるのだ。疑わしさこそが人と人とをギリギリの均衡状態で繋ぎとめる靱帯にほかならない。それに比して事実はあまりに過酷だ。急転直下、否応なしに事態を結末にまで至らしめるほかない事実は、それまで築きあげたもの総てを更地に返してしまい、あとには荒廃と無秩序しか残らない。

事実など要らぬ、疑惑がいい。甘美な疑惑が。

2-1=1だっけ?

2003年07月06日

一〇年以上使用していたアップルの純正モニタがついにいかれた。不意に音もなく掻き消えるようにして画面が消えたのだ。その際ペインタを使用中で、二台あるうちの左モニタの画面全体にファイルを展開して右モニタにパレット類をおいて描いているのだが、消えたのはパレットをおいてある右のほうで、視認できないからドラッグできず左モニタへ移動させることもできないから焦った。一旦パレット設定で保存してからデフォルトに戻したが、スッキリしていた画面にパレットがあるとなんだか窮屈なように思うから現金なものだ。

せっかくデュアルモニタにしたのにデュアルにしてから一年かそこらしか持たなかったのかと思うと癪だが使えるだけ使ったのだから良しとするか。とはいえ新しいのを買うかどうかは迷うところで、プリンタとスキャナを買い替えたいというのが前々から念頭にあり、さらにデジカメにしても最近また調子悪くて接触不良なのか不意に作動しなくなるしと、いずれを優先させるかが難しい。そうかといってデュアル環境を使わないのは損失のような気がするし、それらすべてを一挙に購入してあまりある財が存すれば問題はないのだが、小市民の懐は甚だ寒いのだよ。

ところで若合春侑氏の新刊『蜉蝣』(角川書店)が出た。挙って買うべし!

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