ってゆーか殆ど逃げるよーに表ん出てきた。日課の西日暮里川散歩に彼女が出掛けた隙窺ってのことだ。彼女は毎日玄関で靴履きながら「一緒に行こ」って誘ったけど、それだけはって家にいたのが効を奏した。
おれには彼女みたいにブラっと西日暮里川散歩なんて余裕ないから、川なんか眼もくれずに歩く。乾いたよく響く足音さして、砂煙上げて早足で歩く。外の状況に殆ど変化はなくて、ずっと路地的町並みがあるだけでその不快感も変わんなかったから、まだ帰れる余地はあるっていくらかほっとする。相変らずの異常な暑さで体中の水分ってゆー水分が出てくんじゃないかってぐらい暑くて、忽ち喉の渇きに苦しめられる。体が水分を猛烈に欲してた。彼女は路地の住人とおんなじで外歩いても汗ひとつ掻かず、暑いってゆーおれを不思議そーに見るんだった。
漢字だからすぐに眼についた。『氷』って書いてある旗とか幟とかを何個もぶら下げた小っちゃな屋台が路地の脇にあんのを見っけたんだった。屋台の陰に60ぐらいの親爺が汗も掻かずに涼しげな顔して坐って、ヒヨコみたいな禿げ頭上下に動かして居眠りしてる。屋台の前ん立ってヒラヒラ風に揺れてる色褪せた暖簾の白抜きの字ー読むと、『大阪亭』とか書いてあって、その下に小っちゃく『名物 大阪茶』ってある。大阪茶? 大阪茶って何だ? 聞ーたこともない。でももしかしたらそーゆーお茶があんのかもしんない。通しか知らない隠れた名茶かもしんない。お茶の他にも饅頭とかあるみたいで、『来ればすぐ売る 伊豆 練り饅頭』って幟がある。
汗掻いてるガラス張りの冷蔵庫ん中覗いてみたけど、どれもわけ分かんない飲み物ばっかだった。けどそん中に一個だけ、バドワイザーが紛れてんのをおれは見逃さなかった。親爺揺り起こしてバドワイザー買ってやっと日常的な味で、しかも堪んなく懐かしさ感じながら喉潤せたけど、すぐ飲み干しちゃった。愛しのバドは瞬く間に空んなった。酒とかあんま強い方じゃないから日頃から一気なんかしたこともなかったけど、乾燥し切って罅割れてんじゃないかってぐらいの喉の粘膜の欲求に抗し切れなくて、一気に流し込んじゃったんだった。ってゆーかスルスル何の抵抗もなく入ってくから、ゴクゴク飲んじゃったんだった。酔いはだからすぐ廻ったけど、喉の渇きの方はそれ一個ぐらいじゃ全然癒すことなんかできない。ってゆーか却って喉渇いちゃって、気温が二度も三度も上がったみたいに思え、路地吹き荒れる熱風とかもおれ目掛けて吹いてくるよーに思え、汗もダラダラ流れてきて、今吸収したばっかの水分が途端に出てっちゃうんだった。
怪しげでちょっと不安だったけど、いやちょっとどころか相当不安でメチャクチャ勇気要ったけど、喉罅割れたみたいな感じに耐えらんなくて、その大阪茶とかゆーのを注文する。一杯だけ注文するつもりがVサインしてて慌てて訂正する。親爺は饅頭もどーだって六個入りのパックに入った伊豆練り饅頭とかゆーのを手にして頻りに勧めるみたいだけど、喉渇き切ってるってときに饅頭なんか食ー気なかったし、それ以前にそんなわけ分かんない饅頭を食ー気もなかった。お茶だけで充分。しばらく親爺は饅頭六個を持ちブツクサ言ってたけど、おれが買う気ないの分かるとすぐお茶の用意に掛かった。
見た目は烏龍茶か麦茶みたいだったけど油断はできない。ちょっとだけ口にする。普通のどこにでもある麦茶の味がした。安心して喉開放して一気ん流し込む。ゴクゴク喉鳴らして飲む。冷たい麦茶の涼味が口ん中に広がって熱とか吸収し、更に食道の襞々に染み透りながら胃に下りてくのが手に取るよーに分かる。って思ったら胃の方から押し上げるよーに吐き気が込み上げてきて、口ん中全体に強烈な苦味が一気に広がった。親爺の手前あんま不味そーな顔もできなくて、何食わぬ顔でその場離れて屋台が見えなくなったところでゲロゲロ吐いた。口ん中の苦味はしばらく取れなかった。
自分のゲロ眺めてて不意に高倉健と鶴田浩二んなった男の言ってた、「理解できるもんが現れだしたらユートピアに感染し始めてる証拠だ」っての思い出す。「それに不自然さを感じなくなったらヤバイぞ」とも確か言ってた。彼女の出現がすでにその前兆だったことに今頃気づく。漢字があちこち現れだしたのもそれに違いない。だとすれば状況はかなりヤバイってことで、早く電車に乗んないとユートピアに感染しちゃう、家に帰れなくなるって思って焦ったけど、確実に駅に行く方法なんかなく、駅求めてただただ歩くしかないんだった。まだ口ん中の苦味と不快な暑さがあるから今んとこは大丈夫だって思うけど、それもいつ不快じゃなくなるか分かんないから不安は募るばっかだった。
漢字は他にもあって、よく見てみるとふとしたとこに使われてたりする。今にも倒れそーなバラックの屋根にでっかい看板があって『APC戸呂賦位』とか書いてあって、何だろって店覗くと店頭に大小様々なトロフィーとか飾ってあるんでトロフィー屋だって分かった。狭っ苦しー路地に建ち並ぶ小屋の壁には隙間もないぐらいポスターとか貼り捲られてて、『休日はサフラン汁粉を』とかゴシックで書いてある。『哀民湯』ってのがあった。銭湯らしかったけどなんか暗い名前で、こんなとこに来る奴いんのかって思ったら、中から洗面器抱えた人がゾロゾロ出てきた。間口も狭いしそんなに収容できそーにも見えないのにあとからあとから出てくる。100人や200人じゃきかない。下手すると1000人ぐらいいたかもしんない。その人たちが路地に消えると今度は別の人がワラワラ路地から湧いて出て銭湯に入ってく。やっぱ1000人ぐらいはいる。なんか、どっかの体育館かなんかでコンサートでもやってるみたいな賑わいで、そん中にちらほら日本語らしー話し声が混じってんのが聞こえてきて焦りが最高潮に達し、1000人もの銭湯の客に何ら不自然さを感じてなかったことに改めて気づいて身震いする。ユートピアは確実におれの体を冒し始めてる。おれはこの世界に馴染み始めてる。そー思うとどこをどー行けばいーのか皆目分かんなくなって、その場を離れたい一心で適当に走りだす。狭い路地ん中を何人も路地の住人弾き飛ばしながら走り廻ったけど、不思議と一度も罵声は飛んで来ない。
電車ん乗って帰るんだって強く念じてたから電車の音には敏感に反応した。ちょっとでもそれらしー音がすると走りながらもその音に全神経集中する。何とかそれ捉えよーって必死だった。そしたら遠くの方からカンカンゆー踏切の音が聞こえてきて、だんだん近づいてもきた。そのうち線路が遠くに見えた。やっと尻尾捕まえた、これで帰れるって思って必死で走った。心臓バクバク言ってるし横っ腹も痛かったけど構わず走り続ける。汗とか眼に入ってきて痛かったけど、ちょっとでも眼ー離すとその隙にどっか行っちゃいそーに思えたから拭くこともできず、瞬きもなるたけ我慢した。でもあと100メートルぐらいってとこまで来ると、線路はおれとおんなじ早さで動いてるかのよーに走っても走っても近づけなくなる。強い日差しに線路がキラキラ光ってて、それがまるで人を小馬鹿にしてるみたいに見えて腹が立った。路地を横切る電車が見えた。あとちょっと、あとちょっとで駅に着くって思ったから、息もできないぐらい苦しかったけど全速力で走り続けた。でも線路は全然近づかない。おれとおんなじ速度で逃げてく。
そのうち頭とかクラクラしてきて視野が極端に狭くなって、全身がピリピリ痺れて手足の感覚もなくなって、足とか前に出そーとしても全然ゆーこと聞かない。全身不随意筋になっちゃったみたいに思うよーに動かなくて、ただ惰性で動いてるだけみたいな感じで、感覚ないからなんか飛んでるよーな、宙に浮いてるよーな気もした。体が倒れ込みそーんなって、もー駄目かって諦め掛けたとき、グングン線路の方が近づいてきて眼の前でピタって止まった。踏切の遮断機の黄色と黒の縞々の棒がすぐそこに、手ー伸ばせば届くぐらい間近にある。右手を伸ばしてそれを掴んだ。「捕まえた」って言ったつもりだったけど、掠れて声は出てなかった。駅は踏切のすぐ傍にあった。
周囲の路地的町並みに似合わず駅舎は近代的な建物で、駅名は『西日暮里駅』とかなってるけど、手書きだったし人の出入りも全然なくて、どっか田舎の方の無人駅って感じ。自動券買機で切符買って自動改札通って階段上ってホームん出るけど、おれ以外に人は一人もいない。駅員の姿もなくてホントに無人駅だ。
ベンチに坐って電車来んの待ったけど、貨物列車が通過するばっかで普通の電車は全然来ない。貨物列車はメチャクチャ長くて通過すんのに30分ぐらい掛かんだった。たまに普通の電車が来たと思うと回送電車で、止まってもドア開かなかった。待ってるうちに日が暮れてきて、来ないのかと諦め掛けた頃にやっと真面な電車が来る。山手線に似てるけど一廻り縮んだ感じで、車輛も1輛しかない。でも路地のバスと違ってガラガラに空いてておれ一人の貸し切り状態。冷房もよく効ーてるし、歩き疲れたのと帰れるって安心感のせーもあってすぐに寝ちゃった。ってゆーか電車ん中では大概寝てたから殆ど条件反射的に眠くなるんだった。でも乗り過ごすなんてことは絶対って言ってもいーぐらいない。寝ててもアナウンスとかは聞ーてるらしくて駅に着いたらちゃんと眼が覚める。むしろ起きてて考え事かなんかしてるときに却って乗り過ごすんだった。だから眼ー覚めたとこは降りる駅だった。
散々歩き廻ってメチャクチャ疲れたから、帰ったらすぐ寝よって思った。その前にパンかなんか買ってこーって思って入ったコンビニで初めて気づいたんだった。暗かったから気づかなかったってゆーより、疲れてたから周りが見えなかったんだと思う。レジにツナサンドとミネラルウォーターと烏龍茶置いて初めて異変に気づいたんだった。レジには誰もいなかった。店にも誰もいなかった。どこにも誰もいないんだった。人っこ一人いないんだった。電気も点いてるしエアコンも効ーてんのに、人だけがいない。どーしよっかって思ったけど、誰もいないんじゃ買おーにも買えないし勝手にレジ打つわけにもいかないし、第一レジなんか使えないから仕方なくツナサンドとミネラルウォーターと烏龍茶をレジに置いたまんま出てくる。お預け食らった犬の気持ちが痛いほど分かった。食えないって分かると急に腹減ってきて、当てつけがましくグーグー鳴る。どーにも我慢できなくて深夜営業の店とかあちこち経巡り廻ったけど、どこも空っぽで人はいない。ふとさっき饅頭買っとけば良かったって後悔する。
現次んとこに電話してみよって思いついて電話ボックスに入ったけど、留守みたいだった。矢部んとこも坂淵んとこも掛けてみたけどみんな留守だった。夜な夜な薄暗い公園とか徘徊する出歯亀の矢部を覗いて、みんな夜中に出掛けるよーな奴じゃないんだけど。最後に夏彦んとこに掛けたら繋がった。
「はい、聖です」
「あっすいません間違えました」すぐ切った。もっ遍掛け直す。
「はい、聖です」
「あっすいません間違えました」またすぐ切った。
誰もいない町をひとり歩いて帰る。車とかも全然走ってないからメチャクチャ静かでいーんだけど、なんか、不気味な気もする。誰もいない町は何の役にも立たないってつくづく思い、これなら路地のほうがまだマシだって思った。やっぱあそこはユートピアだったのかって、一瞬思う。
小説/literary fictions