ただでさえ狭くて入り組んでる上に暑さまで加わって、サウナん中でも歩いてるみたいで、三半規管が馬鹿んなって平衡感覚とか方向感覚とかがまるでなくなる。その気違い染みた暑さに脳ミソ溶けそーとか思いながら汗ダラダラ掻いて歩いてると、「ちょっと、あんた」って後ろから野太い声が掛かって呼び止められ、何気に振り返って40代後半ぐらいの男が突っ立ってんの確認してから、それが日本語だって気づいたんだった。男はがさつさを出そーとしてかおれ指差しながら、一層野太くてなんかわざとじゃないかってぐらいの作り声で「あんただよ」とかゆーんだけど、異国的町並みで聞く日本語は格別で、その野太い声質も「あんた」なんてゆーあんま上品じゃない言葉使いさえも心地よく響ーて聞こえ、しかも暑さに脳ミソ茹だってるから余計美しー響きのよーに思え、なんかまるで典雅な歌の調べか小鳥の囀りでも聴ーてるみたいに思えて、返事も忘れて束の間その「あんただよ」に聴き惚れて放心してた。10代の純情可憐な少女がこれ聴ーたら失神しちゃうなとか思いながら。
路地の住人たちとおんなじで汗ひとつ掻かずに涼しー顔してる男は、ヤクザ風の装いした厳つい顔つきだったけど、日本語に飢えてたこともあってか怖くはなかった。むしろ日本語を解する正真正銘の日本人てことで安心したせーか、無性に親近感を覚えた。旅先で偶然同郷の人にでも巡り逢ったよーな、そんな懐かしさまで感じた。男はそれを感じ取ったのか、急に30センチぐらいまで間合い詰めてくる。殆ど衣擦れもさせない静かな、それでいて素早い身の熟しで。
男はこの辺一体を取り仕切ってる何とかゆー組の幹部だってゆー。そー言って、男のゆーには手漉き和紙製の、らしくないお洒落な名刺くれたけど、わけ分かんない文字がゴチャゴチャ並んでてサッパリ読めなかった。おれにそこで働かないかって男はゆーんだった。何でも人手不足で困ってるらしー。それなら見ず知らずのおれなんかより路地の住人使えばいーじゃんかって思ったけど、「路地の奴等は駄目だ、使い物になんねー」って男はゆーんだった。組には何人もスカウトマンがいて、男も他所からここに来てスカウトされたんだってゆー。男の厳つい顔とスカウトってゆー言葉が如何にも不釣り合いで笑いを誘うんだけど、男がそれ許容する性格かどーか判断つき兼ねたからちょっと怺えてた。そしたら男の方が先に笑ってくれたんで、こっちも抑えてた笑いを解放することができた。
その笑いの余韻を残しつつ、「ここは理想郷なんだ」って男は笑顔で言った。「誰もが望んでるユートピアさ」とか歯の浮くよーなこと恥ずかしげもなくゆーんだった。
そのユートピアをヤクザが取り仕切ってるってのがピンと来なかった。ユートピア縄張りにするヤクザなんて聞ーたことない。ユートピアってゆーラブホテルなら分かるけど。
「ユートピアってのはな、いーか、誰にとってもユートピアなんだ。善人も悪人も関係ない。遍く総ての人にとってユートピアとしてあるんだ」分かったよーな分かんないよーなことを男はゆー。「だからあんたの前にはあんたにとってのユートピアとして現れてくるってことさ。ここはそーゆーとこなんだ。キリストも釈迦も夢見て叶わなかった究極の世界がここに実現したのさ」どっか遠くを眺めるよーなポーズ取って男はゆーと、決まったってゆーよにおれを見てニヤって笑う。
この廃墟みたいな路地がユートピアだってゆーんだろーか? おれはこんなの望んでなんかいない。ここはユートピアなんかじゃない。こんな変テコなとこがユートピアなわけがない。それに男の芝居掛かったポーズとか台詞廻しとかが、如何にもって感じでなんか信用できない。おれの不審の表明を男は尤もだって顔して頷いて、「おれもここに来た当初はそー思ったさ。でもすぐに気がついた。ホントにおれが望んでたのはこーゆー世界だってことにね。夢だってその表層は支離滅裂だが無意識の現れだって、どっかの偉い学者さんが言ってんだろ、アレとおんなじことだ」とかゆー。違うよーな気ーしたけど黙って聞き流す。
この世界に馴染んでしまった人を組に入れることはできないんだって男はゆー。ここに来たばっかの人じゃないと人材として役に立たないんだとか言ー、ユートピアに感染しちゃうと人材としての強度が殆どなくなっちゃうから、ユートピアに来たばっかの、まだユートピアに感染してない人をコーティングして補強して使うんだってゆー。そーしておけばユートピアに感染しても人材として使えるんだってゆー。
「あんたのその汗な。それは現実世界での不満とか怒りとか不安とか怖れとか、そーゆーいろんな澱とか垢が液化して毛穴から分泌されてるんだ。発散する熱もそーだ。それ全部出し切って綺麗な体になったあとにユートピアが入ってくんだ。その汗とか熱とかが実は重要でね、それうまく逃がさないよーにコーティングして、ユートピア耐性とでもゆーのかな、作るんだ」分かったよーな分かんないよーな話だった。
おれはこんなとこにいたくはない。一刻も早くうちに帰りたい。ただそれだけだった。男にキッパリそー言って断わったら、「そりゃー難しいよ、あんた」って野太い声で言われた。「でも帰るんなら急がないとユートピアが体ん中に浸み込んでくるぜ」って言ー、「一旦体に浸み込んだユートピアはなかなか取れないからな。そしたら今度は向こーで苦労することんなる」とかゆー。
「まー、去るものは追わずってのが一応ここのルールだから」って野太い声で男はゆーと、親切にも道教えてくれ、ヤクザってゆーより仁侠ってゆー方が近いかもしんないって思った。そー思った途端、男の顔は高倉健になり鶴田浩二んなった。二人の顔が同時に現れてんだけど、足して二で割ったとか像が重なって見えるとかそーゆーんじゃなくて、二人の顔が交わることなくどっちもハッキリ見えるんだった。だからって顔がふたつに分裂したとかゆーんじゃなかったし、アシュラ男爵みたいんなったわけでもなくて、ちゃんとしたひとつの顔なんだけど、そのひとつの顔ん中にふたつの顔が過不足なく同居してんだった。
「電車に乗ってくのがいちばん確実だ」って高倉健と鶴田浩二んなった男はゆー。
おれの考えは間違ってなかった。電車ん乗れば帰れるんだ。無邪気におれが喜んでんの見て、高倉健と鶴田浩二んなった男は僅かに顔顰めて「ただな」って、なんか意味ありげにゆー。「電車はどこにでも偏在してるから、気配を感じんのはそれこそ瞬きするぐらい容易だけどな、その存在は不確定だから実体を捕まえんのは難しーんだ」ってゆー。「位置と運動は同時に測定できないってゆーアレだ」
どーやら量子力学のこと言ってるみたいだけど、量子力学って言えば原子、分子レベルの話で、日常的に意識することじゃないんじゃないかって思ったけど、男はそーじゃないとかゆー。それが現実レベルで作用するんだとか言ー、それが原子、分子んとってのユートピアなんだとかゆー。ってことはそんな電車捕まえるなんて、全く不可能ってことじゃん。帰るに帰れないってことじゃんか。急に不安に駆られておれがオロオロしだしたの見兼ねたのか、男は落ち着けってゆーよーに手ー上げて制して、「強ちそーでもないんだよ」って言った。「言ったろ、ここはユートピアだって。ここじゃ現実世界の物理法則なんてあってないよーなもんだから、つけ入る隙はどっかにある。そこ突つけば帰れないことはない。でもそのうち現実世界の垢が出尽くしちまうと、ユートピアの感染始まるからな。一週間がタイムリミットだな」そー男はゆー。
最後に男は「ま、ガンバレや」ってゆーと、やっぱ衣擦れさせないでクルリとおれに背ー向けて、高倉健と鶴田浩二の背中を誇示するよーに、颯爽と肩で風切るよーに歩いて、路地の奥に消えてった。カッコ良かった。
電車でんしゃデンシャって強く念じながら歩いてんだけど、遠くの方をガタゴト走る音が風ん乗って微かに聞こえてくるだけで、その影さえ捉えることができない。たまに物凄く近くで、眼の前横切ってんじゃないかってぐらいの轟音が鳴り響ーて、地面から振動までビリビリ伝わってきたりすんだけど、全く姿は見せないし、ほんの一瞬ですぐ遠退いちゃうんだった。なんか、いーよーにあしらわれてる感じで、腹が立った。それにこの気違い染みた暑さとか加わるから余計腹立つしイライラする。
路地はずっと続いてる。歩いても歩いても路地ばっかで、油断するとすぐ方向感覚なくなってどこ歩いてんのかも分かんなくなる。周りには殆ど廃墟みたいなボロっちービルとか、増築に増築を繰り返していびつに膨れ上がったバラック小屋とかしか建ってなくて、真面な建物は一個もない。
ってゆーか、なんか嘘っぽいなってふと思う。反吐が出るぐらい、ってゆーか反吐もでないぐらいの暑さが影響してんのかもしんないけど、どこもかしこもおんなじよーな風景の迷路みたいな路地の佇まいが、なんか、薄っぺらってゆーか、書割的風景ってゆーか、全体に作りもんぽく見えてくんだった。そこここに屯してる路地の住人たちも、演技でもしてるみたいに見えた。それも下っ手クソな素人芝居みたいな、本人だけがどーだって感じで得意がってるみたいに見えるんだった。そー思えば思うほど余計嘘っぽく見えちゃって、人の動きもどんどんぎこちなくなってって、しまいには機械仕掛の人形みたいに見えてくる。ギシギシ関節とかが軋む音まで聞こえてくるよーな気がする。これがホントにユートピアなんだろーかって思った。おれが望む世界なんだろーか? まるで猿芝居だ。猿公だ。そー思った瞬間、周囲がなんか殺気立ったよーな気がした。猿芝居ってもっ遍心ん中で言ってみる。ぞわって周囲が揺らぐのが今度はハッキリ分かった。周囲の像がぐにゃって歪んで、波紋が広がるみたいにして空間そのものが波立ち揺らいで、それが振動んなって皮膚に伝わってくんのが分かる。ビリビリ感じる。何もかもがぞわいでる。ぞわぎはどんどん広がってく。
最初に行動に出たのは子供たちだった。手に手に小石とか拾い上げて憎悪剥き出しにしておれに向けて思っきり投げつけんだった。最初は遠巻きに静観してた大人たちもだんだん興奮してきてワーワー言ー始め、しまいには棒切れかなんか持ちだして、振り上げたりブンブン振り廻したりして、なんか大声で罵りながら迫ってきた。逃げた。雨のよーに小石がバラバラ降ってきて体中に当たった。必死で逃げる。耳の横をヒュンって音させて小石が飛んでったかと思うと棒切れが脇腹掠めてく。空間の歪みがバランス感覚おかしくさせるせーで足とか縺れて何回も転びそーんなった。ってゆーか棒切れが足んとこに飛んできて、それに縺れてコケた。全力疾走だったから勢いづいてそのまま二回転半ぐらいした。あんまあちこちぶつけ過ぎてどこが痛いのかも分かんないぐらいで、どこもかしこも痛かった。罵声がだんだん大きくなって、それが近づいてくんのが分かった。全身ビリビリ痺れてて身動きもできなかったから、忽ち周りを路地の住人たちに取り囲まれた。四囲を完全に包囲され、ワンワン犬にまで吠えられた。
周り取り囲んでる人たちの頭越しに、僅かに青空が覗いて見える。大人も子供も男も女もいた。物凄い剣幕でみんな巻くし立てる。それでも日本語じゃないだけいくらかマシで、この上言ってることまで理解できたら更に打ちのめされてるに違いない。分かんないから空眺めたりする余裕もできるんだろー。だからあんまうるさいとも思わなくて、遠い耳鳴りがしてるぐらいにしか感じなかった。そのうち路地の住人の姿がすーっと遠退くよーに消えちゃって、空しか見えなくなった。眼ー廻ってるだけかもしんないけど、その空が廻転してた。時計廻りにゆっくり廻転してんだった。その空ぼーっと眺めてた。
鳥が一羽飛んでる。時計廻りに廻る空と反対に、ゆっくり円を描いてその鳥は廻ってる。鳶みたいだったけど、鷹のよーにも見えた。空とおんなじ色の真っ青な色した鷹だった。なんでか知んないけど、その鷹に親しみとか感じてんだった。なんか、よく知ってるよーな気がして、その元辿ってくと、青い卵に行き着いた。おれの知らないとこでおれの知らないうちに卵から孵ってたらしー。でもよく考えたら、あの卵から孵った雛かどーかなんて分かりっこないんだけど、理由もなくそーに違いないとか思ってる。しばらく鷹はおれに挨拶でもするみたいにおれの真上グルグル廻ってたけど、そのうちどっかに飛んでった。ってゆーか青い空に溶け込むよーに同化して見えなくなった。
鷹が消えると急に周りの罵声が近くで聞こえだして、物凄い形相して唾飛ばしながら巻くし立ててるひとりひとりの顔とかハッキリ見えてくる。どの顔も今にも踊り掛かってきそーな勢いで、身ー竦めてそれに備えるけど、いつまで経っても殴り掛かってきもしなけりゃ蹴り入れてもこない。今まで散々人に物投げつけときながら、完全包囲して虜にすると一切手ー出さない。そーゆー規則とか厳然とあって、それには逆らえないとでもゆーよーに、路地の住人たちはただ罵るだけだった。そんで言ーたいこと全部吐きだして、気ー済んだ奴からその場を離れてく。一人二人って離れてくにつれてだんだん罵声の音量も小っちゃくなってって、最後に残ったのは三歳ぐらいの、今どき珍しく青っ洟垂らしてるこまっしゃくれたガキだった。裸足の足が泥に塗れて薄汚なかった。ガキはぺっぺって唾吐く真似するとクルリと後ろ向いて、お尻ペンペンしてアカンベしながら走ってった。
これのどこがユートピアなんだか、てんで分かんない。一刻も早く電車捕まえてうちに帰ろー。で寝る。で以て当たり障りのない夢でも見る。ユートピアなんかとは全然関係ない極々日常的な夢。
周囲の様子窺いながらゆっくり立ち上がって痛いとこ点検する。大袈裟に転んだ割には血も出てないし、痛みもかなり引いてて特にどーってことないみたいだけど、ただ転んだときに打ったらしー右肩があんま上がんない。無理に上げよーとかすると痛みが走る。肩の具合見ながらゆっくり歩きだすけど、歩く分には支障ないみたい。
路地の住人はさっきまでの攻撃性なんか綺麗サッパリ忘れたってゆーよーに、妙に大人しく静まり返ってるけど、いつまた襲ってくるかって思ったから、もー必死で電車来い電車来いって念じながら歩いた。でも相手は量子力学的電車だけあってそー簡単に向こーからはやって来ない。路地が果てなく続くばっかで、どこまで行っても代り映えしない路地だった。
って思ったら、そんなことないってそれ打ち消すみたいに、むんむんする湿っぽくて重苦しー空気の塊がぶつかってきて、視界が急に開けて川べりに出た。対岸まで60メートルぐらいはありそーな、コンクリで護岸されて水は茶色く濁ってる泥の川だった。大雨で増水したみたいに水が溢れそーで、船でも通ったら間違いなく溢れるだろーって思うぐらい水面はすぐそこにある。如何にもアジア的雰囲気漂わしてる。やっぱここは日本じゃないかもしんない、この暑さにやられて脳の一部に変調来したのかもしんない、一時的な記憶喪失とか記憶錯誤にでも陥ってんのかもしんないとか思った。対岸はこっちと違って工場とかあるみたいで、細長い煙突とか何十本って立ってる。ってゆーか煙突だらけで殆ど隙間もないぐらいに生えてて、如何にも有毒ガス大量に含まれてるって感じの毒々しー緑色の煙とかモクモク吐きだしてる。その川の向こーから電車の音が聞こえてくる。駅は今対岸にあるらしー。
見渡す限り川には橋とか架かってなかったから、渡ろーにも渡れなくて、とりあえず川沿いを緑色のカーテンみたいな煙の幕を張る煙突群右手に見ながら上流に向かって歩いてく。しばらくすると岸から桟橋伸びてんのが見え、何艘か船浮かんでんのも見えた。渡し船らしく、船頭さんらしー人が忙しそーに立ち働いてんのが遠目にも見える。そのうち艫綱解いて大声で何事か言ってんの見て船が出ることを知って、右肩痛むのも構わず走ってって飛び乗った。
乗ってから気づいたんだけど、船はかなり年季の入った和船だった。だとするとやっぱここは日本かなとか思うけど、チラホラとしか乗ってない客の話し声聴くとやっぱ日本語じゃない。なんか日本がどっかの国の植民地んでもなっちゃって、かつて日本がやったよーな目に遭ってるみたいに思えた。だから嘘っぽく見えんのかもしんない。猿芝居なのかもしんない。ってそー思った瞬間、また周囲が波立ったよーな気がした。水面が糸引くみたいに不自然な波紋広げてる。それが振動んなって右肩にビリビリ伝わってくるよーな気もしたから、慌てて考えんの止める。縮こまって息潜めて周囲が静まんのじっと待つ。こんな思考監視みたいなことまでするとこが、なんでユートピアなのか分かんない。こんな束縛されるとこに居続けるなんておれにはできない。強く電車を念じ、電車ん乗ってる自分をイメージする。
流れが速いからか船は全然対岸に近づかず、振り返るとまだすぐそこに桟橋があってずっとおんなじとこにプカプカ浮いてるだけのよーに思え、早くしないと駅が逃げちゃいそーで気が気じゃなかったけど、焦れば焦るほど船の速度は遅くなるよーな気がした。揺れも激しくて左右にグラグラ傾いだりしていつ沈むかって冷や冷やもんだったけど、沈むこともなく30分ぐらいして無事に、それでも何十メートルも下流の船つき場についた。
その船に女も乗ってたらしーんだけど、周り刺戟しないよーに水面ばっか見てたから声掛けられるまで全然気がつかなかった。それにやっぱ日本語ってことにまず驚いたし、しかも高倉健と鶴田浩二んなった男みたいなどすの利ーた野太い声じゃなくて、透明で優しー女の声だったもんだから余計舞い上がっちゃって、それで事態把握すんのにちょっと手間取ったんだった。彼女にそっくりだった、いや彼女だった。一足先にこっちに来てたんだった。なんか出稼ぎから帰ってきた亭主でも向かえるみたいな顔して懐かしそーに彼女はおれを見て、「いずれ来るって思ってたけど、それでも随分待った」って言った。
聞きたいこととか山ほどあったけど咄嗟には出てこなくて、つい口に出たのが「でも、何で?」だった。そしたら彼女は「ここじゃでもは御法度」とか言って答えない。「理由ぐらい」って言っても「駄目なものは駄目」って言って答えてくんない。なんか彼女らしくなくて、こっち来て変わっちゃったのかなとか思ったけど、そんなことよりまずは彼女との逢瀬をゆっくり味わうのが先だって思ったから、それ以上しつこく訊くのは止めた。
彼女に逢ったから緊張とか一気に氷解したんだと思うけど、それまでの疲れがどっと一挙に押し寄せたみたいに疲労の極に達しちゃって、それで彼女んちに行こってことんなったんだった。一刻も早く電車捕まえたかったけど、元々軟弱なおれがこの途轍もない暑さに体力持つはずもないし、緊張の連続で普段使ってない神経とか筋肉とか使って変な疲れ方してたし、このまんま歩き続ければ行き倒れちゃうとも思って、ここらで休息が必要だって思ってたとこでもあったから、渡りに船って感じで彼女の求めに応じたんだった。ってゆーか、彼女に逢ったからにはそのまんまバイバイなんてできるわけがない。
道すがら彼女いなくなってからの顛末とかいろいろ話したのは別に咎め立てとかするつもりじゃ全然なくて、自然とその話になったから話したんだけど、そしたら彼女はそれ気に病んでたらしくて申し訳なさそーに「ゴメンねゴメンね」って頻りに詫びるんで、却ってこっちが恐縮しちゃった。彼女が全然変わってないのもそれで分かった。
小説/literary fictions