Effluents from Tomokata=H

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青ざめたその顔色を覗き込んで「飲みすぎじゃないのか?」と牧野は瀬田の肩を小突くとべつに取って食おうとかするつもりじゃないから安心しろと笑うが、そんなふうに言われると却ってそう思ってしまうと非難がましく訴えれば、人を化け物みたいに言うなよと戯けたような口振りだがその眼はどことなく怒りを帯びているようでもあり、霊的存在らしからぬ上気した頬はしかし怒気の表出というよりは端的に酒気を帯びているためらしく、「言っとくけどな、死んだのは湯之塚であってオレじゃない」断じて違うと何か宣言でもするかに声を張るその息の酒臭さにもそれは明らかだった。とはいえそうキッパリと言われてしまえばああそうなのだと瀬田は頷くしかなく、いやここに坐っているのはたしかに実体を伴った生きた牧野に違いなく、そのかぎりに於いてあれを夢と見做すことは誤りではないがどこかしっくりこないという感じも一方で拭いがたくあって、その痼りのような違和感を持て余しつつああそうなのだと再度頷くと不意に思いだしたように「夢でも見てたんだろう」と牧野が呟き、夜勤明けの帰りの電車で居眠りしたときなどはとくに変な夢を見るものだと自身夢でも見ているような遠い眼差しで店奥の暗がりのほうを眺め、瞬間怒気を含んだ形相を表すがすぐにそれは掻き消え、それでも尚底のほうで燻っている感じがなくもなく、それに恐れを為したというのでは決してないが変な夢とはどんな夢かと促せば女とドライブしていて事故る夢だと牧野は瀬田へ向き直り、不思議なのはそこに瀬田がいて車で併走しながら「こっちをさ、見てんだよ」それが何だか気味悪くてようと声を震わせるが、気味が悪いのは牧野のほうで、振らなきゃよかったと少しく瀬田は後悔する。話すのに夢中というように自身纏っている奇怪な雰囲気を牧野が気に掛ける様子は全然ないが、話す主体の奇怪さよりもその話す内容への関心が尽きぬから気味の悪さを怺えて耳を傾ければ、牧野の舌をそれはさらにも滑らかにし、瀬田のほうへ身を寄せると少しく声を落として急にハンドルが利かなくなって気づいたときには対向車線を走っていたとハンドルを握る身振りをし、その恐怖たるや筆舌に尽しがたくとても夢とは思えぬくらいだと言う。こっちが恐怖に肝を潰しているというのに女のほうは済ました顔で笑ってさえいるから憎らしいと牧野は女への憤懣をあらわにするが、その女について瀬田が問えば見知らぬ女だと牧野は答え、何か瀬田のことを話していたようだと呟くと手にしたグラスを一息に呷り、何を話していたのかそれを知りたいと尚も瀬田が問えば覚えていないと素っ気なく、それがどうかしたのかと逆に問われて答えようもなくどうもしないと瀬田は黙り込む。

煮え切らぬ思いは拭えぬながら瀬田は前言を翻し、たしか遅れたのはほんの七、八分くらいなものでちょうど帰ろうとしていた牧野に店の前で会ったのだったと記憶を手繰り寄せ、そこから先をしかし思いだせなくて首を傾げて問うような眼差しを牧野へ向けると、酔っているのかユラユラと前後に揺れているが瀬田の視線を受けてシャキッとなり、口舌(くぜつ)もしっかりしている明瞭なよく通る声音で許せないと吠え、見ると憤慨に絶えぬというような面持ちをしているから夢に出てきた女に腹を立てても仕方がないと諭せば、許せるわけがないと尚も吠える。酒が廻ると必ず誰かを罵らずにはいられぬという牧野のそれは常套句らしいが許せると思うかと甲高い声で喚きだし、「あいつのせいでオレはこのざまだ」とちょっと向きになっているのが気に掛かるものの人の愚痴を聞いてやる余裕はこっちにもなく、もう関わりあいにはなりたくないといった決然たる面持ちで消えてくれと頼むがそうもいかないのだと少しく牧野は困惑顔で、なぜだと詰め寄れば自らの意志でここにいるわけではないからだと答え、では誰の意志だと重ねて問えば「決まってるだろ、お前のだよ」と牧野は瀬田を指差し、その指の先の垢に塗れた黒い爪には血の固まったようなものが付着していて、それをわざと見せつけるように鼻先に突きつけてくるのを瀬田は鬱陶しそうに払い除ける。

死んだからとてそうそう化けて出たり呪殺したりできるものではなく、世界はそんなに単純にできてはいないのだと妙に達観した口振りだがあいつのせいだと怨みがましく訴えて已まない牧野は死して尚疎ましく、こんなヤツが自分の身代わりだなどとちょっとでも思ったことを瀬田は後悔する。牧野があいつと名指す相手の見当は大凡ついたが念のため訊いてみるとやはりそうで、ではやはり事故ではなかったのかとまた縺(もつ)れだした記憶を瀬田が解きほぐせずにいると、事故なわけがあるかと牧野は物凄い剣幕で捲し立て、それは悪かったと宥めるも尚しばらく勢いは衰えず、かなり気分を損ねたらしく静かになってからもずっと不機嫌で何を言っても答えない。静かなのはありがたいが怨念の凝り固まったような陰鬱たるその様相には参り、こっちまで気が滅入るし酒が不味くなると不平を漏らせばオレのせいじゃないと牧野は不機嫌に訴え、それも皆あいつのせいだと言いたいのだろうと内心瀬田は毒づきながらひとつの思いに縛られてしまった存在とは斯くも哀れなものなのかと当の牧野を哀れむ気持ちはないながら斯かる哀れさ一般について思いを馳せ、それを肴にグラスを空けると少しは気が晴れたような気がした。

そういえば腑に落ちぬことがひとつあると手紙のことを訊ねると「手紙? 何のことだ」と知らぬ素振りで、そんなはずはないと経緯を説明しても知らないねえと不機嫌に顔を背けるだけだからあるいは本当に知らぬのかもしれないが、尚もしつこく問いつづけていたらよほど気に障ったのか徐ろに帰ると呟いてフラフラとよろめきながら去ってゆき、結局肝心なところは何ひとつ明らかにならなかったから牧野への不審が募るだけだった。ほどなく店をあとにした瀬田は自室へ帰るとシャワーを浴びて床についたがなかなか寝つかれず、ようやっと眠りに落ちてもすぐ眼が醒めて幾度もトイレに立ち、そうして幾度目かにトイレに立って戻ったときと記憶するが、雨音のなか微かに人の気配を感じ、不審者の侵入かと怯えつつ明かりをつけるが眩しさにすぐには眼を開けられず、気配は尚も消えぬから無理にも瞼をこじ開けて窺えば牧野がソファに項垂れ坐っていて、しかし息巻いていた先ほどまでの様子とは打って変わって何か急に老け込んでしまったような雰囲気で、茫洋と形も定まらぬ感じで消え掛かった炎のように揺らめいているから声を掛けるのもためらわれるが無視することもできぬから用向きを訊ねると、身振り手振りで何か示そうとするが全体要領を得ないし何か言うようだがその声も届かない。それでも瀬田が部屋の明るさに馴れ徐々に頭も冴えてくると牧野のほうも鮮明になって声もはっきりと聞き分けられるようになるが、深夜人んちに押し掛けてくる非常識な振舞いには少しく腹を立て、この世ならぬものの類いに斯かる道理の通じるはずもないとの意識が働かないのはやはりまだ寝惚けているせいだがあまり強く言い立てても反撃されそうといくらか腰が退けてもいて、いずれにしろ斯かる手合いとどう接すべきかと今さらながら戸惑ってしまうのだった。そうかといって居座られても困るから婉曲ながら安眠妨害を訴える瀬田に牧野は苛立った様子でオレのせいじゃないと語気を荒げ、とはいえここへ来るのは筋違いというもので、話はもう聞いたのだからこの期に及んで何を言うことがあるのかそれが瀬田には分からず、頼むから寝かしてくれと拝んでも自分にはどうすることもできないと牧野は冷たく言い放つ。

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