Effluents from Tomokata=H

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10

四壁は結露した水滴とそれが作る筋とに一面覆われ、フロアのタイルも湿気に波打ち、枠だけの窓から雨が吹き込んでいる一室に明かりはなく、窓際に事務机が五、六台重ねられているが置き方が雑なせいか今にも倒れてきそうで不用意に歩き廻れないのがいくらか難儀だが、散乱したガラス片や器物や紙屑に足の踏み場もないくらいだからそうしようとの気も瀬田にはない。そしてそれはそこにあった。異臭を放っている薄気味の悪い人の形をした塊、というか腐乱した死体。湯之塚のそれではしかしなく、いや湯之塚本人を瀬田は知らぬのだからそれが湯之塚か否かを同定できるはずはないが、それが湯之塚でないことはたしかだった。なぜならなかば腐乱して異臭を放つその死体は牧野だったからだ。とはいえ俯せに倒れているから顔はよく見えないし思い込みということもあるとよくよく眺めてみれば別人に見えなくもなく、近寄ればはっきりするだろうが近寄りたくはないから一定の距離を保ったまましばらく観察していると、忍び寄るように背後に立った二枚目が「分かるよね」と甘い声で囁き、肩に腕を廻して耳元で「分かるよね」と再度言い、肩から腕を離して「分かるよね」と涼やかな眼で瀬田を見つめる。距離をおきながら観察をつづける瀬田の眼にそれは最初の印象の正しさを告げているようで、「牧野」となかば掠れた聞きとれぬほどの呟きを漏らすと「ご名答」と二枚目は手を叩き、床に散乱した器物を蹴散らしながら俯せのそれに歩み寄るとその右脇腹へ右の靴先をねじ込むように差し入れ、低い気合い声とともに蹴転がして仰向かせるが、その振動で壁際の事務机が傾いで揺れ動いたから崩れると半歩下がって瀬田は様子を窺うが、微妙な均衡でそれは前後に傾ぐだけで崩れることもなく、少しずつ振幅を狭めていってそのうち動きは止まった。見るべきはそれではないというかに男が身じろぎし、それに促されるように窓からの薄光に照らされて紗掛かったように浮かびあがる白いシルエットからその足元に転がる仰向きになったものに瀬田が視線を向けると、死後幾日も経過したせいかあらわになったその顔は全体浮腫んでいて、それが牧野なのか牧野でないのか今ひとつ分明ではなく、収まりかけていた疑念が再燃して二枚目への視線にそれが強く現れる。その瀬田の視線を二枚目は軽く笑みで交わし、牧野氏には謹んでご冥福をお祈り致しましょうと手を合わせるが、肩を振るわせているのはその死を悼んでいるからではなく、振り向いた顔はだから無邪気な笑みに包まれている。とはいえこれが牧野だというなら事故死したのはいったい誰なのだろう。遺体確認もし、葬儀も行われたあれは牧野ではなかったのか。瀬田の懐いた疑念に対してなかなか鋭い指摘だと感心したように二枚目は腕組み、しかし答えるつもりはないのか黙したまま白く艶光りした靴先で弄ぶようにそれの脇腹を突ついたりしているが、不意に瀬田のほうへ向き直ると瀬田は葬儀に出向いていないではないかと言い、それが本当にあったことだとどうして言えるのかと涼やかな眼で示すと、ここにあるこれがその何よりの証拠なのだというかに二枚目は右の靴裏でそれの胸の辺りを二度三度踏みつける。そのたびにゴフゴフと鞴(ふいご)のような音が一室に響き、雨音に掻き消されるほどにも弱々しいものながら神経を逆撫でする耳障りな感触でそれはいつまでも耳内に残って瀬田の思考を攪乱し、それを振り払おうとするかに「たしかに」と瀬田は声を張る。たしかに葬儀に列席してはいないが、それが執り行われたことは間違いなく事実なのだから疑う余地はないと反駁すると、どこか困惑したような面持ちで二枚目は首を傾げつつ吹き込んできた雨に濡れるのを避けるように瀬田のほうへ二、三歩戻り、それはお宅が決めることだからべつにどっちだっていいけどさと皮肉な笑みを浮かべつつ何を以てしてたしかな事実と断定するのかそれが分からないと冷やかに言う。仮に葬儀がなかったと仮定してもそのほうが余程不自然だし周囲に不審を懐かせもするだろうから却って騒ぎの元で、実際にはしかしそんな騒ぎは起きていないのだから恙なく葬儀の行われたことは間違いないと問いただすような視線を瀬田が返すと「じゃあそれも牧野、これも牧野ってことで」と戯けたようにはぐらかし、挙げ句ケラケラと笑いだす。

二枚目の場違いな笑いにというよりは死体の発する腐臭に我慢できずに瀬田が部屋を出ると、笑いながら二枚目もついてきて、下卑たところの少しもないそれは爽やかな笑いと言っていいが場違いな印象は拭えないから瀬田の疑念はさらにも深まり、誰が、なぜ、誰が、なぜ、と幾度も自問するうちにいつか声に出して呟いていて、耳敏くそれを捉えたらしい二枚目は尚笑いの余韻を残しつつ他殺と決めつけるのは早計じゃないのと間延びした口調で言い、いみじくも梶木氏が言っていたように自殺の線からも追ってゆくべきだとドラマのようなセリフを吐いてまたケラケラと笑う。ここは笑うところだとでもいうように腹を抱えて大仰に。とても笑える状況じゃないとその笑い声に反発するかに瀬田の面持ちは暗く沈んでゆき、ヤクザの心理は理解できないと会話する意欲も急速に失ってしまうが、瀬田の沈黙に却って勢いづいたのか「世を儚んじゃったんだよ、牧野氏はさ」無理もないけどと込み上げる笑いを怺えるかに口元を手で押さえ、その手が下ろされるとしかし口は固く閉じられて一片の笑みもなく、とはいえ殊更凄んでいるわけでもないのは涼しげな目元に明らかだがどこか人を萎縮させる威圧感がある。二枚目は不意に窓の外を見遣ると「止みそうにないねえ」と眉間を皺寄せ、困惑したような面持ちで瀬田を見つめるが、涼やかな目元はやはりどことなく凄みを帯びていて思わず瀬田は眼を逸らす。二枚目の言うように雨は止みそうにないがそれでも雨足はいくらか弱まっているようだから引き上げるなら今をおいてないと「そろそろ」と瀬田が言い掛けると、それを遮るようにそろそろって何かと二枚目が声のトーンを上げ、とはいえそれはほんの僅かな差で脅しめいた響きは少しもないのだが瀬田にはずいぶんと堪え、あとの言葉がつづかず口籠ってしまうがここで引き上げねばズルズルと引きずり込まれてしまうと危惧されたから遅くなっても困ると暇を告げれば、二枚目は心配げに空を振り仰ぎながらもうしばらく待ったほうがいいだろうと言う。上空は風が強いのか物凄い勢いで雲が流れてゆくが窓を打つ雨滴は穏やかで、これから暴風圏内に入るのかもう通り過ぎたあとなのか瀬田には分からないがいずれにしても今のうちに戻ったほうがいいと再度帰る旨告げると、また引き留められても厄介だから返答を待たずに歩きだし、軋む床を探り探り戻りながらこんなところへのこのこ出向いてきてしまったことを後悔するが、一方で二枚目の正体が気になりもし、いや、知ってしまったら確実に後戻りできなくなると思うから知りたくはないのだが卑俗な好奇心に駆られていることもたしかで、そしてそれ以上にアレのことが頭から離れず、安定を欠いた瀬田の歩みは今にも抜けそうな床のせいではだからないのだった。

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