Effluents from Tomokata=H

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06

ケーキの作業台には大理石が最適だというが据えつけならともかく重過ぎて出し入れに不便極まるし仕舞うところもないと市販の木製麺台より格段に安価な木工用の十二ミリ厚の三〇×四十五センチのちょうど冷蔵庫に入る大きさの品カット合板をハンズで購入し、その上に直に乗せて作業するだけに接着剤の揮発成分の影響を気にしつつ打ち粉を振り一晩じっくり寝かしたパート・シュクレを置いて同様に打ち粉をした小麦粉とバターの匂いの染み込んだ麺棒で最初はグリグリと押さえて次第にコロコロと転がして三ミリ厚に伸ばすのだが、その小麦粉とバターの匂いの染み込んだ人を笑まさずにはおかない菓子を生みだす麺棒が同時に人を死に至らしめる凶器にもなり得ることをふと思って右手に握り締めるとしっくりと馴染み軽くうち振るとブンと風切る音がして、そのブンという音に魅せられたのか釣り込まれたのか次の瞬間には階段をパタパタと上がっているが何をしようとしているのかは自分でもまだよく理解しておらず、右旋回して上がった階段に続く短い廊下の左手奥の取っつきのこの家で最も日当たりのいい六畳間の半開きのドアを左足先で押し開けて忍び入ってその胴を跨いで仁王立ってはじめて得心がいったというようにほくそ笑み、このときをどれほど待ち望んでいたかと小麦粉とバターの匂いの染み込んだ麺棒を鼻先に持ってきてその匂いを嗅ぎ、鼻腔全体に拡がるその匂いに陶然となりながらアホみたいに口半開きにして眠りこけているそいつの脳天目掛けて迷うことなく振り下ろすと鈍いボコという音とともに低いウッという呻きが漏れ聞こえ、さらに二度麺棒を振り上げ振り下ろしてからクイと紐を引いて明かりを点けて差し覗くとその白眼を剥いた顔がいつにも増してアホ面なのが腹立たしく、そこではじめて怒りを掻き立てられでもしたようにすでに血塗れの顔面を思いきり足蹴にし、幾度も幾度も足蹴にし麺棒で叩き続けたため麺棒は血だらけになってしまったが、蒲団の上に転がっているすでに兄ではなくただの肉の塊に過ぎない物体には眼もくれずに階下に下りて作業を続けようとパート・シュクレの上に麺棒を置こうとしたものの、そこにこびりついている赤がやけに眼について浮き上がってくるように見えたし物体Xのように蠢きだしそうにも思えて死んでまで人の邪魔をするかと無性に腹が立ち、伸ばし掛けていたパート・シュクレを手で掻き集めて丸めてラップで包んで冷蔵庫に仕舞ってから麺棒を洗剤で丁寧に洗って自室に戻り、『西遊記(四)』を開いて何とか一章読み終えたところでようやく常態に復したので事態を振り返り見れば、ただ仕事としてこなしたというだけで念願叶った喜びなどどこにもないし純粋に仕事の悦びと一仕事終えたという爽快感があるだけで憎悪は尚も持続していて、いや、今まで以上に沸々煮え滾って「お前は人間じゃねえお前は奴隷だ跪け」と言い「オレに意見するなんぞ百年早えんだバカ」と顔面を蹴りつけたそいつの声が耳内にありありと響いてくるのだが、その鉾先をすでに消失してしまっているのでその意味では後悔しているのだった。

全体に粒子の粗いザラついたワンカットの映像には音楽もなければ演出らしいものもなく淡々と展開していくだけで何かラッシュでも見せられているような気になるが、妙に緊迫した雰囲気だけはひしひしと伝わってきて、しかしそれは記憶に新しいついさっきの出来事だからで音楽もなく編集されていないのもそのためだろうが、記憶そのものからの直接的映像化としか言いようのない映画とはとても言えないその映像それ自体には驚くが自分自身のことをあからさまに見せつけられるのは不快という他なく、スクリーンは私の一挙一動を映し続けているがその惨殺場面だけでうんざりして観る気も失せてしまうもののコルトレーン擬きのおっさんの手前もあって席を立つのを躊躇しつつもふとそのコルトレーン擬きのおっさんの方を窺うと、おっさんは端から映画など観る気はないのか気持ち好さそうに居眠っており、鼾こそ掻いていないものの半開きの口のその締まりのない寝顔を見た途端にこのおっさんにつき合って映画など観ている場合ではなく、況してや観たくもないものを無理から観させられることもないと思い、すぐにも出ようと立ち掛けたときに不意に目についたのがおっさんの抱え持っていた茣蓙だか筵だかで、上手くすればその一振りで一足飛びに有隣堂まで行けるかもしれず、しかし失敗すれば振りだしだとも思うもののこの遅れを取り戻すためにはそれより他に手はないとも思ってその茣蓙だか筵だかに手を伸ばし、その上にダラリと覆い被さっているコルトレーン擬きのおっさんの右腕の袖口をそっと掴んで持ち上げてそっと肘掛けの上に置き、その股の間に挟まっている茣蓙だか筵だかをソロソロと取り上げて静かにゆっくりとロビーに出ておっさんを真似てバサリ一振りすると、カビ臭い温気がムッと立ち籠めてただでさえ湿気た空気が更に輪を掛けて湿気を帯び、それが血の臭いのようにも一瞬思えて噎せ返る。

鮮血のホールトマトをふんだんに使用したトマトブレッドだの純白の牛乳をふんだんに使用したミルクブレッドだの人参ペーストを混ぜ込んだキャロットブレッドだの蜂蜜を混捏した甘くてトロけそうなハニーブレッドだのという多様な食パンを巧みなライティングと画面構成で旨そうに演出している写真を眼にするとどうしてもそれを手ずから焼いてみたくなるしトマトブレッドで作ったピザトーストを食べたいと切望してもいるのだが、まず基本のイギリスパンを克服してからでないと次には行けず、いや、行けないことはないのだがそれでは気が済まず、私にとってそれは反則で、結局使用しているオーブンの癖を熟知してそれに対処しなければどうにもならず数をこなすより他なく納得行くまで作り続けるより他ないのだが、失敗した黒焦げのあるいは生焼けのあるいは固いあるいは酸っぱいパン擬きを食べさせられる母にしてみれば迷惑この上ないだろうと思うとそう頻繁に作るわけにも行かず、しかしあまり間隔があいてしまっても同じ失敗をくり返す可能性があるためその辺の加減が微妙なのだった。生イーストを使用してみたいとも思うものの五〇〇グラム単位で売られている生イーストでは六〇斤ほどのパンができる計算になり、それを賞味期限の二週間で使い切るためには一日四、五斤作らなければならないので殆どこれは不可能に近いし、自家製酵母という手もあるが発酵に時間が掛かり過ぎるし維持管理も大変そうでこれも手を出しかねていて、いや、それ以前に国内産小麦だけで手一杯の状態なのでそれ以外には手の出しようもなく、いずれにしてもオーブンを捻じ伏せ組み伏せて我が物としないことには先へ進むことはできないとその前に仁王立って一睨みし、扉を開けて首突っ込んで何がどうなっているのかとその内部を仔細に観察するのだった。

手前と奥の二箇所にある上部電熱器が剥き出しの生地にあまりに接近しているためにそのクラストが黒焦げてしまうのだが、ただアルミホイルを被せただけでは却って火の当たりが弱くなって覆われたその上部が焼けずに生地がダレて爛れた不細工なものになるし、かといって温度を下げても焼成に時間が掛かって水分が飛んでパサパサになってしまうだろうし、それでも高さのあまりないものについては殆ど問題なく焼けるのだから上火さえ制御できれば何とかなるはずなのだが、それを懇切に解説してくれる『機種別オーブン完全攻略法』とでもいうような本は皆無と言ってよく、どのレシピ本にも共通して言えることはオーブンの癖は各個人で調べ究めるしかないということで、つまりは経験を積むより他ないということなのだが、実は何より知りたい情報はその使用しているオーブンの癖で、庫内各部位による熱ムラにしろ熱供給の仕方だとか仕組みだとかにしろその温度維持の仕組みにしろ扉開閉時の温度低下の度合いやその後の温度上昇の具合にしろ、その他あらゆる状況下における庫内の状態を製作サイドはある程度把握しているはずで、そうでなければ調理の自動メニュー化などできないはずだしユーザー各位がその機種の癖個性を把握することはその機種の使用における必要最低条件のはずなのだが、マニュアルにそのような事項の記述が一切見られないのは簡便なマニュアルを目指すあまりの不備に他ならないし怠慢というよりはユーザーを甘く見ているというより他ない。確かに技術面の顕著な差異にもよるのだが使用する素材の差オーブンの差ができ上がりに影響しないはずはなく、しかもそれが埋めることのできないプロと素人との決定的な差を生むのだったが、抑もプロの使用している素材機材と全く同じものを揃えることも困難を極めるし、仮に揃えられたにしても大量仕入れ大量製作による低価格化に対抗できるものではなく、買ってきた方が安上がりということにもなりかねず、それでも味が好ければ作る意味はあると辛うじて言えるのだがそれさえも儘ならないとすれば総てが意味を失ってしまい、いや、作る行為それ自体が愉楽快楽に直結しているのだから意味などなく必要とさえしていないはずなのだが、そこに意味を見出さずにはいられずそれに縋らずにはいられず、脇腹にピタリ貼りついて離れない死に対抗するにはそうするより他ないのだった。

その上部の異常な焦げつきは上部を覆ってしまうのではなく型の上部周囲にアルミホイルで包んだボール紙を巡らして上部への熱を遮断することなく適度に弱め、それでも焦げてきそうならその上にアルミホイルを被せるという二段構えにすることで解決の糸口を見出せそうに思え、早速それを型に設置するための枠を一ミリ径の針金で拵え、まずはじめに十九×四・五センチのものを装着して試みるが、型の側面を覆ってしまうため生地が見えず焼け具合の確認のために頻繁に扉を開けるわけにもいかないのでアルミホイルを被せるタイミングが判断しにくく、その前に立っているだけで胃の辺りがキリキリと痛んでくるのを怺えつつ焦げはじめるだろう残り十五分ほどの時点で素早く扉を開け、焼け具合を確認する間もなくアルミホイルを被せて素早く扉を閉めるが焼き上がりを見るとタイミングが遅かったのか黒焦げてしまい、といって被せるタイミングを早くすると上部が焼けずにダレてしまう。横幅を短く十八センチにしてその分七センチと高さをとり、これでオーブンの天井との隙間が一センチほどになって熱の遮蔽率は上がり生地の端も覗けるので焼け具合を見ることもできるが、設定温度と時間が一八〇度三〇分、一八〇度三十五分、二〇〇度三十五分、二〇〇度四〇分、上火二一〇度下火二二〇度三十五分と同じイギリスパンでも各レシピ区々で使用しているオーブンの違いによる差、あるいは生地それ自体の差も関係してくるのだろうが、うちのオーブンレンジでは一八〇度からはじまって一九〇度二〇〇度とその都度温度を変えたり予熱を長くしてみたり予熱温度を高くしてみたりといろいろ試みた結果予熱二四〇度焼成二二〇度三十五分というのが頃合いのようで、熱遮蔽率が上がっているので途中でアルミホイルも被せずにそのまま焼き上げることにし、霧を吹いてオーブンに入れて果てしなく長く感じる三十五分が経過してピッピッピッピッピッという終了の電子音が鳴り終わるのも待たずに祈るような気持ちで扉を開けると濃厚な香りが溢れだして益々期待が高まり、角皿にフックをガチャンと引っ掛けて引きだしてその中央に乗っているイギリスパンを遮蔽紙越しに恐る恐るさし覗くと、上部中央部分のクラストは少々色がきつめではあるものの許容範囲を超えてはいないほどの焼け具合でまずまずと言っていいし側面底面のクラストも色好く焼けているが、覆いの横幅を短くした分両端がひどく焦げついてしまい、やはり側面は完全に覆ってしまった方がいいらしく、横幅が長くなれば生地の状態を見ることは全くできなくなるがうまく焼ければそれでいいと遮蔽紙を七・五×二十四センチにして試みる。

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