Effluents from Tomokata=H

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2010年上半期

06月

22日 ミシシッピの耳アカめ!

11日 前半分だけでも……

05月

23日 マンガたち。

09日 エビ星人現わる。

04月

28日 サギにあった。

08日 出た。

03月

18日 メジロ

12日 備えた。

02月

03日 〜さようなら〜

01月

18日 八年。

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2010年06月22日

ミシシッピの耳アカめ!

陸上のアカミミガメ

水面に顔を出すアカミミガメ

ミシシッピアカミミガメ、俗にミドリガメと言われるやつで、体長20センチくらいだろうか、もちろん誰かが捨てたのに違いないが近所の川でたまに見掛ける。これが意外と獰猛らしく在来種を駆逐してしまうらしい。あまりよくない環境下でも、というのは汚れた河川でも平気で、繁殖力も強いという。

いつも単独でいて、他の個体は見当たらないからこの一匹だけなのかもしれない。一匹だけなら繁殖もできないからそれほど気にすることもないのかもしれないが、こいつが呼び水となって二匹三匹と増えないともかぎらない。というのは捨てる輩が現れるかもしれないということだ。

そんなことを思いつつ上流へ向かっていたら数十メートル先の橋袂に三匹浮かんでいるのを見つけた。いずれも20センチはありそうで、捨てられたのか自然繁殖かそれは分からないが、大きさからして数年以上経っているだろう。その橋袂に暗渠があるのだが、そこを塒にしているのでもあろうか、奥にはもっとウヨウヨいるのだろうか。下流にいたのは流されたのかもしれない。駆除なり保護なりしてもらうべきなのだろうか。

水面に顔を出すアカミミガメ2

とはいえ、一旦自然繁殖で増えてしまったものを元に戻すことはほとんど不可能だろう。バス然りザリガニ然りで、ザリガニと言えば最早アメリカザリガニのほうが一般的なくらいだし、ニホンザリガニなど見たこともないし。

2010年06月11日

前半分だけでも……

今書いている小説について。実はまだ書き終わっていない。もう少しで終わりそうなのだが、なかなか着地点が見出せないでいる。とはいえ、200枚を超えてしまったのでとりあえず前半だけでもupすることにした。前半部分はもうそれほど改変しないと思うので。まあ200枚といってもかれこれ一年半近くになるので遅筆にも程があり、枚数としてはむしろ少ないくらいなのだが。

ただタイトルがこれでいいのか、いまいちピンと来ないというか、納まりが悪い気がしてならない。尤も、何かもっと他にいいタイトルはないものかと毎回思っていて、そう思いながら結局そのままになってしまう。タイトルなどあってないようなものだから何でも構わないのだが、納まりが悪いとやはりちょっとモヤモヤする。しばらく長いタイトルがつづいていたので簡潔なものにしようとしたのが間違いだったのか。といって何か象徴的な、内容を暗示する類いの、そうしたものを求めているわけではなくて、むしろまったく無意味な、内容とは関係ないような、そうしたものにしたいのだ。しかし内容と乖離すればするほど納まりも悪くなるのではないか、そうとすれば矛盾していることになる。

ではどうすればいいのかというと、内容と関係なくそれでいて納まりのいいタイトルということになるが、それが難しい。

滴るまで 1

2010年05月23日

マンガたち。

マンガ02

『午前3時の危険地帯 1』ねむようこ(2010年05月祥伝社)

主要登場人物は前作『午前3時の無法地帯』と変わらないが、ももこと多賀谷との恋愛を軸として展開してゆくようではないらしく、さしあたりそれは脇へ押し退けられている。

そうして新入社員として新たな主人公を迎えて仕切り直しということらしい。つまりは同じことのくり返しか。

マンガ03

『潔く柔く 12』いくえみ綾(2010年05月集英社)

あちこち寄り道しながらも、ようやくラスボス登場と言ったところ。とはいえ大きく迂回することで、カンナと禄の出会いに説得力が出てくるわけで、この二人を結ぶ線上に人物を配して周りから攻めてゆくその愚直さというか、こだわりというか、手っ取り早く二人を出会わせないところが作品に奥行きを齎しているのだろう。

マンガ01

『デビルサマナー葛葉ライドウ対コドクノマレビト 1』(2010年05月エンターブレイン)

作画:綾村切人

原作:金子一馬

監修:山井一千

脚本:真壁太陽・原田庵十

綾村氏の流麗且つ繊細なペンタッチだけでも充分に堪能できるが、大正という時代の面白さに満ちているというか、それが大きい。探偵、猟奇といったモチーフは、大正という時代にこそ相応しい。原作のゲームは知らないので予備知識もないが、さして影響はなさそうだ。

それにしても長いタイトルだ。

2010年05月09日

エビ星人現わる。

邦題:第9地区

原題:District 9

監督:ニール・ブロムカンプ

脚本:ニール・ブロムカンプ、テリー・タッチェル

2009年アメリカ/111分

1982年、南アフリカ共和国ヨハネスブルグ上空に突如飛来した宇宙船。船内では多数のエイリアンが劣悪な環境のなかで衰弱していた。エイリアンは難民として保護されることになり、その管理は政府から委託された多角的企業MNUが行うことになる。

それから約30年。その風貌からエビと蔑まれるエイリアンは高度なテクノロジーを有しているにも拘わらず不潔で野蛮で醜悪で、居住区はスラムと化し、好物のネコ缶を得るために自分たちの武器の密売までする始末で、地域住民との軋轢は深まってゆくばかり。 そこで居住区を移す計画が持ち上がる。MNUのエイリアン課に勤務するヴィカスがその責任者に抜擢され、承諾のサインを取るために武装した兵士とともに第9地区へ赴くが、あるエイリアンの小屋で誤って謎の液体を浴びてしまう。そのことでヴィカスはMNUから追われる身となる。

隔離された居住区で生活するエイリアンとそれを管理する人間という構図から、南アのアパルトヘイトや難民問題を下敷きにしているのは見てとれるが、南アに於ける対立構造は単純に白人と黒人の対立軸だけではなく、白人の間にもイギリス系とオランダ系とで階級差があるらしく、さらにはナイジェリア移民のギャングが絡んでくるなど、ちょっと込み入っている。そうしたモチーフは南ア出身のブロムカンプならではのものだろうが、事情に暗いと分かりづらいところもある。

とにかくそうした社会的政治的背景からシリアスな内容なのかと思ったのだが、全然違った。

冒頭から実際のニュース映像や市民へのインタビューを交え、加えてこちらは虚構だろう学者や関係者へのインタビュー等々が随所に挿入されていて、南アの現実を背景にしているだけに、そうしたモキュメンタリーによる描写は一定のリアリティを感じさせるのだが、単にリアルなだけではなく、全体にB級感が漂っている。ポール・バーホーベンやデヴィッド・クローネンバーグのようなテイストを感じさせる、モキュメンタリーでリアリティを担保した差別ネタ満載のザ・フライといった感じ。つまり明らかに受け狙いで作られていて、映像がリアルであればあるほど笑いが嵩じてくるといった構図になっているのだ。

地球を侵略しに来たわけでもなく、さりとて愛すべき隣人というわけでもなく、たまたま不時着しただけで人類には何の関心もないというエイリアン像は斬新で秀逸だが、どこか笑いを誘う。

また途中からバディものめく展開になったり、『エイリアン2』を思わせるパワードスーツが出てきたりと古今のあらゆるSF映画の要素が、それこそ臆面もなく詰め込まれていて盛り沢山でもある。なかでもエイリアンの兵器で撃たれた肉体が破裂する場面はクローネンバーグの『スキャナーズ』を彷彿とさせ、カメラのレンズに血飛沫やら肉片やらが飛び散ってくるその描写は小気味よい。ミサイルが板野サーカスしているのも嬉しい。

そうした随所に見られる低予算だからこそ可能な不謹慎なネタやどぎつい表現が、この映画の最大の魅力だろう。かといって映像に見劣りがするわけでもなく、VFXも遜色ない出来だ。

ヴィカスは平凡な会社員だが、妻の父親がMNUの重役か何からしく、重責に抜擢されたのもそのためだろうが、エリート意識が強く、エイリアンに対して差別的に振る舞う。ある共同体に内属しながら当の共同体に於いてなかば自明な事柄を自覚することは困難なもので、白人社会に帰属している彼は自らの差別意識に無自覚なのだ。ところが謎の液体を浴びて追われる身となり、その帰属している共同体から排除されることで、家庭を失い、家族を失い、孤独になって、ようやくそのことに気づく。

そこではじめてエイリアンと対等な関係として、同じ立ち位置に立つことができ、エイリアンにも家庭があり、家族がいて、仲間あるいは妻だろうか、その死を悲しむということを理解する。

とはいえその辺りをあまり深く描かずにさらりと流していたり、後半から急速にマンガ的な様相を帯びてきて、最後は派手なバトルアクションになるところなどはまさにB級らしい展開だが、それはそれで面白い。というかすべてはそれを楽しむための布石と言ってよく、ご大層なテーマやメッセージを読み取るよりも純粋にネタとして笑うべきだろう。

多少強引な展開や無理やりな設定があるにもせよ、とにかく狂騒的で笑いに満ちていて、最後まで飽きさせない映画だ。

2010年04月28日

サギにあった。

例によって買い物帰りに川沿いを歩いていたら、というか川沿いへ出る路地が川に突き当たるところ、今まさに視界が開けて真正面に川を覗ける位置に差し掛かったところで、そこから川岸へ下りる階段が設けられているので自ずと視線は河面へ落ちていったのだが、その視線の先にある浅瀬の岩の上に白いものを見つけた。

サギだ。遠目ではっきりしないがあまり大きくはないので、体長六〇センチくらいか、コサギかもしれない。ここら辺りを餌場にでもしているらしく時折見掛けるヤツで、恐らく同じ個体だろう。前にも撮ろうとして失敗しているが、晴れていたのと動き廻っていなかったのとで何とか撮れた。

サギ01

サギ02

それにしてもどこからやってくるのか、近くに塒(ねぐら)になるような森や林もなさそうなのに。

2010年04月08日

出た。

先月末、古井由吉の新刊『やすらい花』が出たので購入した。こうして次々新刊が出て、それを次々読めるというのは嬉しいことだ。今ちょうど『白暗淵(しろわだ)』を読んでいるのだが、それをを読み終えてもまだ『人生の色気』が控えているので『やすらい花』はそのあとということになる。ただ、流し読みできるものではないし、じっくり味わいたくもあって少しずつ読んでいるからいつになることやら。

さらには並行してプルースト『失われた時を求めて』を読んでいるし、ガルシア=マルケス『族長の秋』も読んでいるし、ハイデガー『ニーチェ』も読んでいる。それらを読み終えても読んでいない本のストックはまだまだあるので、本当にいつになるのかは分からない。

それはさておき、以前に比べると最近のものは平明な文章で、ずいぶん読みやすくなっているような気もする。

『やすらい花』古井由吉/『煙滅』ジョルジュ・ペレック

ジョルジュ・ペレックの『煙滅』も購入した。リポグラムという特定の文字を使わない手法で書かれていて、フランス語で使用頻度の最も高い「E」の文字を使っていないという。とんでもない小説もあったものだが、それを翻訳してしまうのだからすごい。邦訳ではそれを「い段」抜きで、つまり「いきしちにひみりゐ」抜きで書いている。

巷ではウェルメイドの、ただ涙を誘うだけの、毒にも薬にもならないようなストーリーが蔓延っているが、それだけが小説ではないということだ。まあ、ウェルメイドにはウェルメイドの面白さがあるにしても。

ところで自作小説だが、遅々とした進みゆきでいまだ難航中。まあそれでも書き進めてはいるので、いずれ脱稿できるだろう。

2010年03月18日

メジロ

カメラを持って出掛けた。と言って何か目的があってのことではなく、たまたま持って出掛けたのだ。決して盗撮をしようというのではない。暖かくなって開放的な気分になり、浮かれ燥(はしゃ)いで隙ができたところを狙いすましてとかそういうことではない。背後から音もなく忍び寄ってあんなものやこんなものをとかそういうことではまったくない。

とにかくカメラを持って出掛けたのだ。そして買い物を済ませたその帰り、川沿いを歩いていたら、早咲きの桜に何か動くものの気配を感じ、見るとメジロだった。近づいても逃げる様子はなく、この機を逃してはとカメラを構えた。距離にして数メートルくらいだが、ちょこまかと動き廻ってなかなかファインダーに納まらない。それでも根気よく追い廻してどうにか撮れたのがこれだ。

桜花の蜜を吸うメジロ1

桜花の蜜を吸うメジロ2

べつの日に同じ桜の下を通ったが、メジロはいなかった。

2010年03月12日

備えた。

書棚が四つある。なぜといって本が大量にあるからだ。なぜ本が大量にあるかと言うと本を捨てないからだ。とにかく向かい合わせにふたつずつ並んでいる。とはいえ、何の支えもなしにただ置いてあるだけから大地震が来たらひとたまりもない。四つのうち二つはガラス扉つきだからガラスが割れたりしたらさらなる惨状を呈するに違いない。一面血の海だ。

いや、そこで寝ているわけではないから仮に倒れたとしても下敷きにはならないし、血の海にもならない。たまたまそこにいるときに地震が起きて書棚が倒れてきたら話はべつだが。とはいえ倒れないに越したことはない。

転倒防止

だから何らか備えをせねばならないと常々思っていたが、なかなか腰が上がらなかった。いつ来るともしれぬ地震に備えることよりも日々の生活に追われてしまうのは常だろうからだ。そのうちにと思っているうちに七年八年と過ぎてしまった。

その間にも本は増えつづけた。なぜといって捨てないからだ。なぜ捨てないかと言えばどれも大切だからだ。

そんなわけで、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた書棚は危険窮まりなく、万一地震が来ても倒れないようにしなければならない。それでようやく転倒防止の器具を購入したというわけだ。近所のヨーカドーにもあるにはあったが、四セット分ともなると重くて持って帰るのは大変だからネットで。

さしあたりこれで転倒の心配はなくなったと思うが、果して本当に大丈夫なのかという不安は残る。本を詰め込みすぎているせいで、支えきれないということはないか、この細い突っ張りだけで本当に支えられるのか、と。それはしかし地震が来てみなければ分からない。

備えあれば憂いなしと言うが、どれほど備えても憂いは残る。

2010年02月03日

〜さようなら〜

もう十年以上は使っているのだろうか、デジタル秤の調子が悪く、スイッチをオンにしてもエラーになってしまうことが度々ある。ただの接触不良というようなことではないらしく、センサー系に異常がある感じ。何度かオンオフをくり返していると動作することはするのだが、どうにも心許ない。完全に沈黙してしまうのも時間の問題だろう。しかもスイッチ部分は破損しているし液晶画面の覆いも取れ掛かっているしで、それなりガタも来ている。まあ十年も使っていればそんなものだろうが、ここまで使えば買い換えてもバチは当たらないだろう、何のバチかは知らないが。

デジタル秤

とにかく使用中にダメになったりしたら困るので、新しいのを買うことにした。特に高いものでなくてもよく、手ごろな価格で使い勝手のいいものがあればと店で物色してみたら、技術の進歩は目覚ましいもので、いずれも薄いし軽いしコンパクトだし、精度も上がって消費電力も少なくなっている。

200gまで0.1g単位、500gまで0.5g単位、2000gまで1g単位で計量できるものがあった。今使っているのは500gまで1g単位、1000gまで2g単位。それでも殊更不便に感じることはなかったが、より正確に計れるのならそれに越したことはない。価格的にも手頃だったのでそれを購入した。

スイッチ部分は完全にフラットのいわゆるタッチパネルのような方式で、触れただけでオンオフできる。今やそれも珍しくはないが、何かの拍子に触ってしまっても反応してしまうので、過って計量中にスイッチが切れたりしたらと思うとちょっと不安ではある。例えば液体を零したり物が落ちたりしたら反射的に払い除けようとしてしまうだろうが、計量が終わるまではそれもできない。

他に気になる点というと作動音だろうか、スイッチを入れると微かに耳鳴りのような甲高い音がする。聞こえるか聞こえないか程度のものだから意識しなければ気にはならないだろうが、意識すると耳障りだ。

それでも、上にも記したように、200gまで0.1g単位で計量できるということがやはり魅力だ。ただ、0.1g単位で計量できるということは、すなわち0.1g単位で考えるということでもある。つまりレシピの作成に際してそれを反映せしめるか否かの選択を迫られる、ということでもあるわけだ。さらには、これまでのレシピもそれに沿って考え直さねばならなくなるかもしれない、ということでもある。そうとすれば少々厄介なことだ。

まあそれは追々考えることにして、とにかく古いのには引退してもらおう。

因みに計量皿が取り外し可能で洗えるということで、これは便利だ。

2010年01月18日

八年。

早いものでサイトを開設して八年が経った。倦まず弛まずというのではないがコツコツやってきたその結果ではある。といって何かを成し遂げたとかやり果せたとか、そういった類いの達成感はまるでない。というのも、何も成し遂げてはいないしやり果せてもいないからで、抑も何かを為し遂げようとかやり果せようとか、そうしたことはまったく考えていないからだ。いや少しくらいは考えているかもしれないが、全体からすれば僅かなもので、向後もそれに変わりはないだろう。

これと言って他に書くこともないが、まだ小説が書きあがらないことが気掛かり。そろそろ何とかしなければと思うのだが気が乗らないというか、原稿へ向かう気分にならない。あと少しで終わりそうなので書けるものなら書きたいのだが、書きたいのに書けないからもどかしい。

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