友方=Hの垂れ流し ホーム

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 雑記

miscellaneous notes 

何もしてない

2004年12月31日

綾ちゃんまたしても例の描き掛けから。口の感じとか歯並びが気に入っていて、全体巧く描けたほうだが、髪の毛がいまいち描けていない。あまり線を多くするのもどうかと思うが、アニメ的な塊になってしまうのもちょっと嫌で、そういった迷いが線に出ているのがハッキリと見てとれる。

また場面が替わるごとにキャラの顔が微妙に違ってたりする。イラストとは勝手が違って戸惑うこと頻りだが、それはそれで面白くもあるし、色彩センスがあまり良くない私にはモノクロのマンガのほうがむしろ合っているのかもしれないと思わないでもない。いや、マンガの難しさは承知している。不用意にマンガなど描きはじめてしまったと少しく後悔しないでもない。なぜといってほかのことにまで手が廻らなくなってしまうからだ。だから筆なかばで凍結してしまったのだ。再開したいと思いつつも気が乗らない。

それどころか、このところ取り憑かれたようにCDを取り込む毎日でほかのことが手につかない状態だったりする。それではいかんと二週間ぶりくらいに小説を書こうとしたが、なかなか文章が頭に入ってこないので困った。全部取り込むまでダメかもしれない。

今年最後の更新だというのになんと低調な締め括り……。こんな調子で正月を明るく迎えられるのだろうか? いや、抑も正月は来るのだろうか。というか正月って何?

──それは君、コールマン髭を蓄えたずいぶんと立派な紳士だよ。

──そ、そうなんですか?

──ああ。君も幾度かテレビで眼にしたことがあると思うがね。目元の涼しげな好青年と言った風情で、至極穏やかな人だと聞く。尤ももう四十近いという話だが、全体若やいだ印象に溢れているのだね。長らく欧州で活動していたのが去年だか一昨年だか帰国したはずだよ。マスコミでも大々的に取りあげて、たしかテレビ中継などもされたと思うが。

──ああ、何ですか、見たような、見ないような気がします。

──うん。大々的にやっていたからね。近頃は結婚の話で持ちきりのようだ。

──結婚、ですか。

──ああ、何でも向こうで知り合った貴族の娘さんらしい。

──ああそれはお目出度いことで。

──うん、目出度いね。時局柄景気の悪い話ばかりで気も滅入ってしまうが、斯かるときこそ皆で明るく祝福したいものじゃあないかね。そうだろう、時宗くん。正月氏の輝かしい前途をだよ、祝福しようじゃないか。

──はあ、そうですね。

──どうした、時宗くん。前祝いにパアッとやろうじゃあないかね。何、金なら心配ない。ほら、これを見給え。

──あっ、それは……。えっ、でもどう為さったんで?

──何、あるところにはあるものさ。さあ行こう。そうだ、添島くんも呼ぼうじゃあないか。久しぶりに、三人で、うん、そうしよう。

──あ、いや、添島は……

──何だね。添島くんがどうかしたのかね。

──いえ、どうしたということはないのですが。何ですか、その、添島が、と言いますか添島には……

──まあいい。とにかく出掛けよう。こんなところに腐っていたら体にも毒だ。違うかね、時宗くん。

──僕は、べつに。

──いや、いかんよ、時宗くん。それではダメだ。そんなことではダメだよ。時宗くん。おい、どこへ行く。時宗くん。時宗くん。戻って来給え、時宗くん。

因みに何もしてないとは笙野頼子の小説名だが、ごく一部のエッセイを除き、これだけ持ってない。できれば単行本で読みたいところだが、もう文庫でしか入手できないかもしれない。いや、文庫すら怪しいかも……

そうかそういうことだったのか

2004年12月22日

比較的巧く描けたメガネっ娘(マウスオーバーでペン入れ画に)。全ページこの程度のレベルを維持したいのだが、なかなかそうも行かないのが現実というもの。マンガを描くと己の画力のなさが、これ以上ないというほどあからさまに露呈するからかなり凹むのだが、一方でそれは画力向上へ向けてのある種道標ともなるわけだから目を背けてはならず、確と見据えて自戒としつつ精進せねばならない。因みにセリフは実際のもの。字が汚いのはペンタブのせいと言っておく。

祥子ちゃん

とはいえ描けないものがすぐに描けるようになるものでもなく、作業は遅々として進まない。反故に塗れて腐ってゆくばかり。腐臭の漂う自室に蹲って何か呪詛のようなものを頻りに呟いている彼はなかば人間ではないものへと変じていて、腐臭の元が彼なのか彼以外の何かなのかもう区別はつかなくなってしまった。そのうち何か禍々しい雄叫びめいた叫びがどこかで叫ばれ、四囲を震撼せしめたそれは遍く世界に轟き渡り、いよいよ世界は終焉の時を迎えると誰もが諦念とともに嘆くそのとき、まさに世界は生まれ変わるのだとぼんやりとながら彼は思うのだ。その彼の手には一匹のゴキブリが握られている。死しているのに尚それは六本の足を蠢かせ、その呪縛から逃れようとする。強く強く彼は拳を握りしめ、次いでその手を開くがそこには何もない。

そこには何もない。世界も、時間も、空間も、思惟も、何もかも。何もかも。あるのはただ言葉のみ。何もないと言って已まない言葉のみ。いや、言葉がある。すべては言葉から生まれる。思惟も、空間も、時間も、世界も、言葉から生まれる。だからすべてがここにはある。世界が、生まれた。いま、生まれた。

ほら、動いた。強く強く握りしめていた彼の拳の中の一匹のゴキブリが。艶やかなクリーム色の体液を滴らせながら。

あれ、そうなのか?

とりあえずminiで

2004年12月19日

買い物などに出掛けるときには大概CDウォークマンでジャズを聴いているのだが、ずいぶん前に買ったのをいまだに使いつづけているわけだ。最初のうちは何枚かCDを持って途中で入れ替えてたりしていたが、だんだん面倒臭くなって最近は一枚をリピートするだけになっている。それでもジョン・コルトレーン、セロニアス・モンク、エリック・ドルフィー、オーネット・コールマン等々、何回聴いても飽きないからあまり不便とも思っていなかった。コルトレーンの『アセンション』なんて1曲40分で、コンプリート・ヴァジョンは2ヴァージョン収録で80分だし、『ライヴ・イン・ジャパン』の「クレッセント」、「マイ・フェイヴァリット・シングス」になると60分近くあるが、延々聴きつづけたって退屈しないから不思議なくらいだ。

それはそうと最近、iPod miniを入手した(といっても貰ったんだが)。どんなものかと早速何枚かCDを読み込んでみた。読み込みはPCのiTunesで行い、それをiPodへ移すという行程だが、今までPCで音楽を聴くこともなかったので、iTunesを使う機会もほとんどなかった。CDを入れるとアプリが起動するがタイトルから曲名から表示され、前はこんなことなかったのにと不思議に思い、検索してみたらそれはGracenote CDDBのおかげらしい。音楽識別技術で、楽曲のアーティスト、タイトル、トラック名、ジャンル等々の各種情報のデータベースということだ。そこへアクセスしてデータを取得しているらしく、知らぬ間にずいぶんと便利になったものだ

フォーマットと音質をどうするかだが、量よりも質を重視するタイプなのでステレオビットレート320kbps、サンプルレート48.000KHzとし、MP3の使い道もないからAACで読み込んだ。アルバム1枚45分ほどで100MBほどになり、iPod miniの容量は4GBだからアルバム40枚くらい入る計算だ。手持ちのCDは400枚近くあるから一割程度しか入らないが、よく聴くものは限られているからそれだけあればとりあえず充分だろう。iPod miniへの転送もFireWireで頗る速い。

ただ、iTunes関連のファイルがあるのは起動ディスクのあるボリュームで、それが10GBのパーティションで残量が3.5GBくらいしかないからギリギリだ。そのうち別のボリュームにシステムを再インストールしなければならないかもしれない。と思っていたら環境設定を見るとデータは別の場所でもいいようなので、20GBの別ボリュームへ関連ファイルを移した。

iPod mini

これで遠慮なく使えると調子扱いて読み込んでいたらあっという間に4GB越えてしまった。とはいえ、20GBでも200枚くらいしか入らないわけだから、のびのび使うにはパーティションを仕切り直さねばならない。そうなるときちんとバックアップしなければならないから厄介だ。それは追々考えるとして今はiPodだ。

容量を超過してもプレイリストを複数用意して聴きたいものを適宜アップデートすれば問題ない。いっそのことアーティストごとにプレイリストを作ってもよく、そのほうがむしろ小回りが利くか。その際、環境設定で「選択したプレイリストのみ自動的にアップデート」あるいは「曲とプレイリストを手動で管理」のいずれかをチェックすればいい。

とはいえ、肝心なのは音で、それがダメなら話にならないが、聴いてみたらそんなに悪くない。これまで聴いていたものに較べて違和感があるとかそういうことも全然ない。

それに驚くほど小さい。本体それ自体がリモコンサイズと言っていい。連続再生時間が8時間で、もう少しあるといいのだが、その小ささからすればバッテリースペースも限られてるだろうから致し方ないというところか。インイヤータイプのイヤホンが付属しているのだが、これが私はダメで、長時間装着していると頭は痛くなるし吐き気はしてくるしで使えない。しかし今まで使用していた耳掛け式ヘッドホンだとちょっとコードが短く、長いのがあれば買い換えるがなければ延長コードが要るかもしれない。剥きだしのまま持ち歩いて傷がつくのもイヤだからいろいろとアクセサリも買わねばならない。

とにかく手にしてはじめてその利便性に気づいた次第。

iPod mini

─Gracenote CDDBに誤りがあった。『CLIFFORD BROWN MEMORIAL ALBUM (COMPLETED)』(東芝EMI CJ28-5119)で、CDの1〜9の曲名が取得されたデータでは10〜18の曲名になっていて、CDの10〜18の曲名が取得されたデータでは1〜9の曲名になっている。一曲一曲確認したわけではないが別テイクが並びで収録されているから、取得されたデータの曲名が違うことは一聴して分かる。ほかにもあるかもしれないと思えば、データも迂闊に信用はできない。

メガネ、メガネ

2004年12月13日

難しいせいかイラストではほとんど描かないのだが、実はメガネとか好きだったりする。メガネそのものではなく、メガネを掛けた女性がだ。いわゆるメガネ萌えってヤツかね。記憶のなかでこの人と思い当たる節はないのだが、いつからかそうなっていて、それに気づいたのもわりと最近のことなのだ。といって、女教師とか秘書とかいった、いかにもな作りすぎのキャラにはあまり惹かれない。フツーな感じが良い。

メガネっ娘

因みに上は例の描き掛けだが、そのタイトルを『一般的利潤率の傾向的低下』という。これを描いていたとき『資本論』のその辺りを読んでいただけで、深い意味はない。

それにしても、ペン入れしたあとより下描きの段階のほうが線が生き生きしているから癪だ。

このところイラストがまるで描けず、小説のほうも八〇枚辺りで停滞している。そんななかでレシピだけは定期的に更新している。これじゃあレシピサイトだ。どっちがメインなんだか分からなくなってくる。いや、量的に見れば完全にメインを凌駕している。何とかせねば。でも、どうやって?

続 放置プレイ

2004年12月09日

これまた描き掛けマンガで申し訳ない。これはサイズ100%のもので、実寸にすると24×42ミリくらいか。靴が変だし手もいい加減で、背景の看板もまだできていない。こういう看板とか広告とかってけっこう面倒臭いのだが、それを描くか描かないかでリアリティーも変わってくるから案外手を抜けない。ペン入れ済みその割りに資料はほとんど使わないから時間ばかり掛かる。しかもPC上だとかなり拡大できてしまうから、紙に描いているときよりも細かいところが気になって困る。チマチマといつまでも弄くっていてちっとも先へ進めないのだ。

このままお蔵にならなければいいのだが、あり得なくはない。

「ねえ、私のことどう思ってる?」

「どうって……」

「好き?」

「……あ、うん」

「愛してる?」

「……」

「ねえ、愛してる?」

「あ」

「愛してるって言って」

「あ、あぃい」

「え、聞こえない」

そんなセリフはない。

放置プレイ

2004年12月03日

描き掛けのマンガがひとつある。春頃に思い立って少しずつネームを描いていた。ネーム→下描き→ペン入れという行程の、ネームの段階からPCで描いたから紙は一切使用していない。いや、ラフ原画をプリントアウトはした。プリントアウトすると全ページを広げて確認できるし、そのほうが全体の把握には便がいい。

ペン入れ済み一応ネームは完成していて、ペン入れ途中のものが七枚ほど残っているが、もう半年くらい手をつけていない。右はペン入れを済ませたところからの抜粋。奥の女の子が主人公で手前は彼氏。

人物と背景は別レイヤで、直線、曲線はベジェで描いている(すべてペインタ上)。あまりゴチャゴチャするとイヤなので、ベジェは適宜統合してピクセルデータに変換している。フキダシは手書き。デジタル作画ではテンプレート化したフキダシだったりするが、あれは無機質な感じがしてどうも好かないのだ。キャラの内面を表示させるというのがその機能だとすれば、適当ではないような気がするのだ。その無機質な感じを逆に利用するということはあるにしても。

その割りにブラシはベタ塗りを使用して強弱のないフラットな線で描いている。個人的には入り抜きのある線のほうが味わいがあって好きなのだが、ペインタのペンブラシは入り抜きがうまく表現できないから仕方がない。きちんと入り抜きを表現できるマンガ専用のソフトもあるが、わざわざ買うつもりはない。

というか、マンガは難しい。コマ割りとか、構図とか、目線誘導のためのフキダシの位置とか。特にこのマンガはコマ割りが変則で、普通右から左へ読ませるところを部分的に左から右へ読ませたりしているから、フキダシの位置でずいぶん手間取った。週間連載なら20枚のネームを一日か二日で上げるのだろうが、とても真似できないよ。それを思うとプロの凄さを改めて思い知る。このネームにいったいどれだけ掛かったことか。

ペン入れが完了したらトーンの処理だが、今のところ作業を再開する予定はない。

電車になんか乗っちゃダメさ

2004年12月01日

『電車男』がネットで話題を呼び、出版されて売れてるらしい。そう言えば書店で平積みされた本を見たような気がする。今さらな気もしたが、気になったので読んでみた。まとめサイトでだ。本は買うまでもない。というか、掲示板の書き込みが元だし書籍もそれに準ずる形らしいから、それならブラウザで見たほうがオリジナルの雰囲気をより掴めるだろう。

本編を読んでから一渡り関連サイトも見てみたが、あれは完全にネタのようだ。そういえば読んでいるときも、いくつか描写に引っ掛かるところがあったような気がする。ただ、まとめサイトのものは編集されていたし、一気に読むとかかる客観的視点には立ちにくくなるという面もあり、さして疑念も懐かなかった。

電車男の語る話それ自体は、いわゆるダメ男(ここではアキバ系オタク)が清楚なお嬢様をゲットするというよくある告白ストーリーで、それだけを小説化しても箸にも棒にもかからない体の陳腐さだし文章もダメダメなんだが、それでもそのダメダメな文章がある種のリアリティーを感じさせるという面はある。ネタということを前提にしても、それなりに面白いと言っていい。

ただ、その面白さが何に起因しているかというと、電車男の文章の面白さではなく(これは全然面白くない)、その書き込みに対するスレ住人たちのレスだろう。そのレスにしても何割かは自作自演なのだろうが、エルメスへの告白を目指して一丸となっているところがなんだか微笑ましいというか、その盛り上がりはスレ上でリアルタイムに進行してゆく掲示板という形式によるもので、それと分かちがたく結びついていると思われる。つまり内容の面白さではなく、形式の面白さだ。内容だけを見たら本当にカスみたいなもので、どうでもいいって感じ。あれを読んで感動したなんて書いているのをネットで見掛けたりするが、ホントかよと首を傾げてしまう。まあ、ありきたりなストーリーに一風変わった形式というのは、エンタメ系で受けるパターンのような気はするが。あるいはパターンの組み合わせで易々と感動してしまういわゆるこれが動物化ってヤツなのか?

『電車男』には後日談があって、書籍化されていない部分もあり、本編を感動ものと捉えるなら窮めて蛇足的な後日談だが、私にはむしろ興味深かった。

奥手の電車男に焦れたエルメスが電車男を煽るというか、その気にさせておいて直前でお預けを食らわし、その様を掲示板に書かせるというエロ小説まがいの趣向で、それはつまり電車男及びスレ住人によって理想化されたエルメスが、現実の女として矮小化されてゆく過程になるわけだ。それはそれで徹底すれば面白いものになると思う。

電車男は、いや『電車男』というシナリオを書いた人物は、そこまで射程に入れていたのではないか。毒男(独身男性のことか?)らの描く理想を提示しておいてその足下を掬うという展開だったとしたら、一編はまた違った印象になったかもしれない。ただ、こちらの場合、スレ住人の反応が悪いので本編のような盛り上がりは全然ないし、そのなかで電車男はホテルを予約し、そこでのH報告をするとまで予告しているのだが、その先の書き込みもない。以後、重度の2ちゃんねらーだったはずの電車男はネットから姿を消す。

あるいは出版が決まって無駄な蛇足は要らぬと編集者に釘を刺されたのか? 純愛物語と銘打っている以上、せっかくの感動に水を差すようなものを書いたりしたら売れるものも売れなくなるからね。

おそらく電車男もエルメスも実在しない。フィクションとして売るのならまだしも、それがさも事実であるかのように謡うことは、やはり問題だと思う。著作権者が特定できない著作物の出版という側面も併せ考えると、ネット文学などと言って喜んではいられない。


電車男の時刻表

電車男@全過去ログ

分別しろとか言ってますけど

2004年11月23日

横浜市はゴミの減量化を計るということで、平成22年度のゴミ排出量を平成13年度に比して30%減らすことを目標(飽くまで目標なのね)として分別の仕方が変わる。市全域では来年4月からの実施ということだが、私の住んでいる地区では先月から変わっている。これがなかなかややこしい。

もともと横浜市のゴミ焼却炉は燃焼温度が高いらしくて、これまでほとんど分別らしい分別はしていなかったから、今さらながら分別の面倒臭さを思い知った。とはいえ馴れてしまえばどうってことはないだろう。

ただ、ちょっと分からないことがある。事前に配布された冊子によれば、分別の仕方は、家庭ゴミ、使用済み乾電池、スプレー缶、燃えないゴミ、プラスティック製容器包装、缶・びん・ペットボトル、小さな金属類、古紙、古布となっている。そのなかでプラスティック製容器包装の分別の規定が、家庭ゴミの規定も含めてだが、曖昧というか、矛盾を孕んでいるのではないかと思うのだ。

プラスティック製容器包装としてリサイクルの対象になっているのは、商品を包装しているプラスティック製のもので、中身の商品を使用したあと不要になるものとある。さらにプラマークのついているものはすべてがその対象とされている。その一方で、プラスティック製でも商品そのものは対象外とされていて、家庭ゴミとして出すよう明示されている。

世の中プラスティック製品で溢れているということもあって、それが家庭ゴミの範疇に入るものなのか、プラスティック製容器包装の範疇に入るものなのか、なかなか把握しにくいのだ。プラスティックは悉くリサイクルするということなら簡単なのだが、いろいろと事情もあるのだろう。

例えば、家庭で使用するサランラップ、ポリ袋等は、一見容器包装に思われるが、それ自体が商品として消費されるものなので、家庭ゴミということになる。また、商品を購入した際についてきたりするスプーン等を包装している包装材は、スプーン等が商品ではないために、リサイクルの対象外となる。

しかし、それらは比較的分かりやすいもので、事はそう簡単にはいかない。

私が日頃から菓子を作っているのはご承知かと思うが(レシピページを見よ)、それら菓子はトレイに乗せたりフィルムを貼ったりと、各種包装材を頻繁に使用している。家庭でパン・菓子等を作っていればこれは珍しくもないことだろう。湿気や乾燥を防ぐのにそれらは必須でもある。

菓子トレイそれら包装材の分別が、よく分からないのだ。いや、それ自体商品として消費しているわけだから、単純に考えれば家庭ゴミとして捨てるのが正しいように思われる。ただ、ここで使用しているものは、そのほとんどが業務用なのだ。右写真に明らかなようにそれら包装材には、しっかりとプラマークが刻印されているのだ。

上に示したように市の規定によれば、プラマークのついているものはすべてリサイクルの対象だという。そうとすればプラマークがついているかぎりにおいて、それはプラスティック製容器包装として分別すべきなのではないか。しかし、それ自体を商品として消費しているということ、さらに家庭で作られたものは商品ではない(基本的にそうだろう)ということもまた事実なわけで、そうとすれば、そのかぎりにおいて、それは家庭ゴミとして分別すべきものとも見做し得る。

商品そのものとして使用されたプラマークの入っている容器包装は、いったいどこへ出せばいいのだろう?

プラマークを優先すべきなのか、それ自体の商品性を優先すべきなのか。それについてはどこにも記述が見られないと思う。プラマークの入った業務用の製品といえども、個人で購入し使用することが可能だということを鑑みれば、いずれを優先するのかということを、きちんと明示してくれないと分別するほうとしては、どうしていいのか分からない。それとも私の理解力が足りないだけなのか?

400MB

2004年11月19日

現在借りているサーバの容量は200MBだが、それが倍の400MBになった。といってオプションとかで増やしたわけではなく、基本量が増量したということだ。料金設定が変わるということもない。現時点でデータ容量が130MBくらいになっているから、いずれ増量せねばならなくなると考えてはいたのだが、向こうから増やしてくれたのでありがたい。

とはいえ、インターネットの普及率とサイト立ち上げの容易さ、画像、ムービー等の使用頻度等鑑みれば、今どき400MBくらいは大した容量ではないのかもしれない。

一般的にサイトの寿命がどれほどなのか知らないが、長くつづけていればデータも増えてくる。古いものを削除すればいいようなものだが、サイトをコミュニケーションツールとしてよりも、アーカイヴとして理解している面が強い私としては、一旦それを公開した以上、不用意に削除することには抵抗がある。なので容量は多いに越したことはない。

これであと二、三年は大丈夫か。

ハヤオの動く城

2004年11月15日

キムタクがダメとかいう話が飛び交っているが、やはりちょっと見てみたい。キムタクはべつにどうでもいいけど。

近年宮崎氏は主要キャストに俳優ばかり起用しているが、それってどうなのだろうと思う。アニメには声優の芝居のほうが耳に馴染むし、自然に感じられるのに。あるいは声優の芝居に慣れてしまっている耳にそう感じられるだけなのか。たしかに長い間に慣されてしまっただけで、決してその自然さが自明のものではないということは充分にあり得る。

抑も日本のアニメはリミテッドアニメで、その芝居も動きもかなりデフォルメされたものだから、それに見合うよう声優の芝居もデフォルメされているだろう。だから実写における芝居のリアリティーと、アニメにおける声の芝居のリアリティーとは、同じではないのかもしれない。

あるいは窮めて戦略的に、かかるリアリティーそのものを変質せしめんがために俳優を起用していると見做すことができるかもしれない。というのも最近のアニメはコンピュータの導入ととにも絵柄にしろ動きにしろ実写的なリアルさを追求するものが増えているような気がするからだ。結果声優にもリアルな芝居を求めるようになったということなのか。

しかしかかるリアルさは押井にこそ相応しいもので、多分にアニメ的な絵柄の宮崎作品には似つかわしくない。演出面においても同様で、例えば登場人物の感情が高ぶったときに、無重力にでもなったように髪の毛や衣服がふわっと持ち上がったりするが、これなど実写ではあり得ない。そこに実写的なリアルさの芝居を持ってきたとして、果たしてうまくマッチするだろうか。

いやそれ以前に、声優的演技を忌避したとしても、それに替わる俳優の演技が声優以下では意味がないし、実際俳優がその期待に充分に応えられているかというと、かなり疑問だ。ただ、俳優を起用するという時点でそれなりに話題性を持ってしまっているから、それがダメだとなると声優を起用してダメな場合より以上にダメさが目につくということも考えられる。

突き詰めれば声優か俳優かということよりも個々人の演技力に掛かってくると思うのだが、そうとすれば声優俳優いずれにおいても演技の質が低下しているということなのだろうか。あるはい単純にミスキャスティングということか。

ところで日本の借金は700兆円を超えているが、700兆円と言われてもピンとこない。しかしこれを見るとちょっと背筋が寒くなる。これってマジ返せるのか?

『日本の借金』時計

七人

2004年11月11日

最近「七人」を「ななにん」と読んでいるのを耳にする。テレビ局のアナウンサーも「ななにん」と言っているが、これがどうにも馴染めない。「七人」は「しちにん」ではないのか。「七人の侍」は「ななにんのさむらい」と言うのだろうか。「荒野の七人」は「こうやのななにん」か。「七年目の浮気」は「ななねんめのうわき」か。

例えば「雰囲気」を「ふいんき」と言ってしまうのは明らかに間違いだが、「七人」を「ななにん」と読んでも強ち間違いとは言い切れないから始末に負えない。「しち」という読みをこの世からなくそうとしているのだろうか。それともアナウンサーは昔から「ななにん」と読んでいたのだろうか。

しかし「一人」「二人」「三人」「四人」「五人」「六人」「八人」「九人」「十人」のうち、「一人」「二人」のふたつを除いてあとは皆音読みだ。いや「四」も訓読みか。しかしこれは音読みすると「しにん」になってしまうから避けるのは分かる。それが「七」でまた訓読みになるのはなぜか。意味が分からない。

べつにどっちだっていいようなものだが、耳にするたびそれがノイジーに響いて不快でならないのだ。どうにかならないものか。そんなこと思うのはオレだけか。

ところで今週の『巌窟王』で、アルベールの父フェルナンが芝居の幕間を「まくま」と言っていたが、ご承知のようにあれは「まくあい」と読む。だれも指摘しなかったのだろうか。近未来の設定だからもはや「まくま」として罷り通っているということなのか。ちょっと興醒め。

にしてもアルベールのお子様ぶりには笑ってしまうね。

低迷

2004年10月25日

新作小説やっと五〇枚に達した。とはいえ先は全然見えていない、いつものことだけど。先月は小説がほとんど手つかずの状態だったから今月は小説強化月間のつもりだったが、全然強化されていないのだった。気が乗らないというか、全然やる気がない。そうなるともう何をやってもうまくいかず、ますます落ち込むばかり。

さて、どうしたものか? とりあえず、休むか。

──ならぬ。

──ちょっとだけ、ほんのちょっとだけだから。

──ならぬ。

──いいじゃん、ケチ。

──ならぬと言ったらならぬ。

──うぬぬ、こうなったら実力行使だ。これでも食らえ! えいっ。

──な、何をする、やめんか! こらっ。

──えいっ、どうだ、参ったか。休みくれるのか、くれないのか。

──や、やらぬ。

──まだ言うか、ええい、こうしてくれる。それっ、それっ!

──ああ、やめんか。やめんか。

──参ったか、参ったか。参ったと言え、参ったと言え。

──は、破門じゃ。破門じゃ。

──ずるい、破門だなんて、そりゃずるいよ師匠。

──何がずるいか。己が未熟を顧みもせず、何が休みくれだ。誰がやるか。

──そりゃあんまりだよ。ずいぶん修行したじゃんか。ちょっとくらい休みくれたって罰当たらないよ。

──その考えが精進の足らぬ証拠だ。

──そんな。

──四の五の言わず修行に励め。行け。

──ううう。

──何をしている。行かぬか。

──はい。

さて、どうしたものか?

ホロッホー

2004年10月22日

──お、兄ちゃんええもん持ってんな。誰にもろてん?

──誰かってええやん。

──ソレ何か知ってるか? ホロッホー言うてな、おっちゃんも昔ようけ持っててん。

──ウソや。ホロッホー違うし。

──ウソちゃうよ。こないしてホラ、翼広げて足持ってキュイイインてすんねやろ、キュイイインて。懐かしなあ。

──キュイイインとか、そんなんせえへんよ。何言うてんの、アホちゃうか。

──するする。キュイイインてすんねんて。キュイイインて。アホやなあ知らんのか、貸してみ。

──何すんねん、触んな。

──いたっ、打つことないやろ。ちょっと貸して言うただけやん。

──ホロッホーとちゃうし、キュイイインとかでけへんし。

──できるできる、兄ちゃんできるて。ホラその足んトコ、そこ持つやろ、そしたら翼ぐう広げて、キュイイインや。簡単やって。

──そんなんできるか!

──懐かしなあ。ホロッホードリルとかホロッホータンクとかホロッホージェットとかあったなあ。おっちゃん好きやったんはホロッホータワーや。しゃあけどあれ、あんま出てけえへんかってんな。人気なかったんかな、好きやってんけど。

──そんなんあるか。

──懐かしなあ。トリプルホロッホークラーッシュ!

──なんやそれ、さぶっ。

──これはとても危険な技だ。テレビの前のちびっ子は絶対に真似しちゃダメだぞ! 懐かしなあ。

ところで今、若合春侑の『蜉蝣』を読んでいる。昼は美学校でヌードモデルをし、夜はカフェの女給をしている歸依が調教される話なのだが、陵辱はされるし堕胎はするし美学生との恋愛も儚く終わるしとかなりヘビーな展開で、『無花果日誌』では思春期の少女が主人公だったからか読んでいてこそばゆい感じだったが、こちらは若合的世界に立ち戻ってエログロ全開だから読んでいて心地良い。さしたる抵抗もなしに流されるままどこまでも堕ちてゆく歸依の、苦痛とそれを通り越した地平に開ける快楽とが、生々しく描かれている。

やはり正字正仮名遣いがいい雰囲気を醸しだしていて、かかる若合氏のアプローチの仕方が好きなのだ。その時代には書き得ないだろう内容をその時代の字体仮名遣いで書くという手法は、あり得たかもしれない発禁本を読んでいるような感覚を呼び起こし、それが何とも刺激的なのだ。そしてそれが単なる擬古文とは異なる若合氏の小説の魅力ではなかろうか。活字や組版や紙質や装丁なんかも時代背景に即したものだったりするとさらに雰囲気が出ると思うが、さすがにそこまでは難しいのだろうか。

『蜉蝣』若合春侑(角川書店 2004 ISBN4-04-873470-9)

お買いもの

2004年10月13日

きょうは、有隣堂本店書籍館に行きました。電車に乗って、行きました。オーネット・コールマンの『Who's Crazy』をウォークマンで聴きながら行きました。

ご本をたくさん買いました。

『金比羅』笙野頼子、『「話して考える」と「書いて考える」』大江健三郎。この二冊を買おうと思って行ったら、『8月の果て』柳美里、『マンガの深読み大人読み』夏目房之介、があったので、それも買いました。

あと『伽羅枕』尾崎紅葉、を買いました。『多情多恨』もありました。でも、それは買うのはやめました。

あと『モンテ・クリスト伯』デュマ、をパラパラっと見ました。テレビで『巌窟王』を見たから気になったのでした。『巌窟王』はすごいです。でも目がチカチカして見辛いです。だから、テクスチャを貼るのはやめたほうがいいと思います。原画の人がせっかく立体的に描いた絵が、テクスチャのせいで平面的に見えてしまいます。失敗だと思います。『モンテ・クリスト伯』は買いませんでした。

あと『友愛のポリティックス 2』ジャック・デリダ、があったので買いました。1は持ってます。

あと『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』カール・マルクス、『ドイツ・イデオロギー』マルクス/エンゲルス、を買いました。『資本論』を読んだら読もうと思います。今、地代のところを読んでいます。わけが、分かりません。

本が重くてとっても疲れました。おわり。

私はむしろ逆で

2004年10月04日

気づけばもう十月。ということで『消える前 7 新機軸』をupした。前回の更新が四月だからかれこれ半年ぶりくらいだ。こんなペースではこの先どうなるのかと我ながら不安だが、HTML化の作業自体は粗方完了したからあとは地道にあらすじを書くだけだ。とはいえそのあらすじを書くのが私は不得手なようで、なかなか思うように進まないのだ。次の更新は年明けになってしまいそうな予感……

──鋭い意見ありがとう。ナタリアは?

──私はむしろ逆で、小説より目、男たちがギラギラした目で立ち読みしている姿を想像しただけで、私の乳首は立ちっ放しだわ。

──エクセレント! ハマタはどうだい?

というようなやりとりを見ることはもうできない。『WORLD DOWN TOWN』が終わってしまってちょっと残念な今日このごろ。というか9月でフジの深夜枠は軒並み終了しているようだが気のせいか。今週の番組表を見ると海外の一時間ドラマが毎日三話ずつ入っているし、新番組もひとつもない様子。やれ保守点検だ、やれスポーツ延長で放送休止だとかなりひどい状態だったらしいから、それで自粛したのだろうか?

 雑記

miscellaneous notes 

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