友方=Hの垂れ流し ホーム

戻る   

 雑記

miscellaneous notes 

遅まきながら難民生活など

2004年03月09日

突然連合国軍によって日本が攻め込まれる。日本の殲滅を目的としたものらしい。列島は完全に包囲され、東京は壊滅し、日本人は総難民化する。吉田知子著『日本難民』はその難民生活を描いている。「起こり得るかもしれない地獄絵の近未来」「予見的問題長編」と帯にはあるが、全然起こり得る話ではないしさして予見的でもないと思われる。ただもし仮にそういうことが起きたとしたら日本がそれに真面に対応できぬだろうことは何となく予感されもするから怖い。奥付を見ると初出誌「新潮」二〇〇二年十月号とあるから発売は九月七日ということで、その四日後の九月十一日には例の米テロが起きていて、それが書かれた背景もそれなりに分からないではない。その意味では予見的ということがある程度妥当するようにも思われる。

とはいえ、日本殲滅などということはほとんど起こり得ぬ事態だろうから読者を納得させるだけの政治的背景を描こうとしてもリアリティーの保証はできないと思われる。実際難民として避難する主人公の一人称で話が進められるから攻める側の描写は一切なされず、その理由すら明らかにはならない。日本人が信仰を持たぬからだと説明されてはいるが、それすら確たる情報としてではなく、噂めいたものとして聞かれるにすぎない。ある種のシミュレーション物を期待した読者はだから速攻で裏切られることになる。むしろ斯かる類いのリアリズムを排除することで、テロやら何やらで物騒な世界情勢から誰もが何とはなしに懐いている漠たる不安に相即する形で難民の内面のリアリティーというようなものを現出せしめているのだろう。

政治的背景が描かれないから作中における政治的解決もあり得ないわけだが、明確に名指すことのできない敵の存在が却って不気味に支配していて、名状しがたい怖さがある。抑も敵の連合国側は日本という国家を解体せんと目論んいるようではないらしいのだ。単に国家を解体させるということが目的なら政治的にほかの選択肢もあるわけで、わざわざ最も強硬な武力制圧という挙に出る必然性はなく、況してそれへ至るほかない政治的緊張というような前兆も一切ないのだ。少なくとも作中においてそれが存在している、していたという描写はない。つまり一切の原因性を見出せぬ脅威なわけで、「日本が世界中の憤懣の捌け口にされ」たと作中で言われているように、まったく不条理窮まりないこととして受けとめるほかなく、上にも示したようにそこにはほとんどリアリティーがない。抑も作者はそんなことを描こうとしているのではないだろう。

とにかく主人公は逃げつづける。三十年連れ添った夫と隣人のシンパラ氏とともに車で寂れた温泉宿かなんかに避難する。それでも最初はあまり切迫した感じではない。

木々の甘いにおいがした。おいしい空気、と私は言った。これで腹も落ち着いたし、ゆっくり温泉にでも入って寝るとしようか、と夫がのんびりと言う。この味噌は味がいいですね、とシンパラ氏はおもねるようなことを言った。今度うちでもこれを買わせよう。どこで買ったのですか。

高浜デパートよ。天王って味噌。わりと高いんだけど、わざわざ買いに行くの、と返事をしてから変な気がした。今度というのがあるのだろうか、高浜デパートへまた行くことがあるのだろうか。(32頁)

しかし毒やガスに追われ、ついには食料も尽き果て、というふうに徐々に追いつめられていく。それでも万事上のような調子がつづいて、避難生活の非日常的日常とでも言えばいいのか、その細々した生活の細部が実に面白い。

敵の実体が不確かだからかこの現象それ自体が何だか自然災害のようにも思えてくる。前半の温泉宿での避難生活において主人公らは一夜台風に見舞われるのだが、その後もその延長線上にいるような感じがしないでもないのだ。もちろんその脅威は台風の比ではなく、一夜明ければ快晴というようなわけにはいかないが、敵への怒りとか憎悪とかそういった感情さえ主人公らには見られないということも被災者という印象を強くさせる。だからこれはある種のサバイバル小説といえる。とはいえ、決定的に生還の見込みのない不毛なサバイバルだが。

ちょうどこれを読んでいるときに、中井久夫著『分裂病と人類』(東京大学出版会 1982年)を併読していたのだが、著者はそこで木村敏を参照しつつ分裂病親和性として「先取り的な構えの卓越」というようなことを、あるいは著者自身の言として「もっとも遠くもっとも杳(かす)かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する」ということを述べている。変化の傾向を予測的に把握する未来先取り的なそれを微分回路的認知とも言っていて、過去の集積としての積分回路的認知と対置している。

もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じるとは、端的にこの小説のことを指しているようだ。あり得ないと言って一笑に付すことができないのは、その兆候を少なからず共有しているからではないだろうか。

日本難民(新潮社刊 2003年)

分裂病と人類(紀伊国屋書店)

ペインタ8ってば・・・

2004年02月14日

使用アプリも大概揃ったので、本腰入れてOS Xをメインに使うことにする。大枚はたいて買ったのに全然使わないのでは勿体ない気がするからだ。それにOutlook ExpressもInternet Explorerもサポート終了してしまったということもあって、実際的にも移行せざるを得ぬ状況だということもある。

というわけでペインタ8を久々に使ってみる。ペインタにかぎらずペンタブを使うアプリは大概そうなのだが、右手にペンを持ち、左手をキーボードにおいてショートカットキーでツール等変更しながら描く。ことに着彩するときにはブラシサイズを変更したり画面を拡大縮小したりポインタツールに頻繁に切り替えて画面から色を抽出したりするからなくてはならぬ機能と言っていい。

そこでしかし不具合が生じるということに気づいた。ショートカットキーによるポインタで選択して描画すると変なものが画面に現れるのだ。下図にあるように半透明の四角な形がペンに追随して現れてくるのだ。コマンドZで取り消しすると消えるのだが半透明に描画されているというわけではないようだ。それでも二回に一回は出てくるし、いったん出たら自然には消えないようなのでウザくて仕方がない。これまでこんな現象は見られなかったはずだが、急にどうしたというのだろう。不可解窮まりない。

ひとつ問題をクリアしたと思ったらまたべつな問題が生じてくる。こんなことではまたOS 9へ戻ってしまいそうだ。大丈夫か?

激重マウスよ、さらば!

2004年02月11日

久しぶりにOS Xを起ち上げてみたが、激重マウスに10分で音をあげた。どうにも肩が凝って仕方がない。とはいえいつまでもOS 9というわけにもいかないし、というかフリーズ再起動が日常茶飯な状態なのでそろそろ移行を考えねばならない。マウスが変われば少しはマシになるかと、とりあえず新しいのを導入してみた。

サンワのイオ(MA-WIH2DS)だが、使用感はそれほど悪くない。使い馴れたOS 9のマウスの快適さに較べたら違和感のあることは否めぬが、OS Xの激重よりは全然使える。ところがワイヤレスなのでマウス本体に電池を入れねばならず、単三電池二本の入ったマウスはやはり重い。ドライバの激重は緩和したがマウス本体が激重になってしまった。それでもあまり浮かさないようにすればいいし、馴れの問題もあるだろうからしばらく様子を見ることにする。

MA-WIH2DS

ぬるいのがいい

2004年02月01日

ジム・ジャームッシュ監督の『ダウン・バイ・ロー』(1986年製作 米・西独)をDVDで観た。『ストレンジャー・ザン・パラダイス』とセットでずいぶんリーズナブルだったので思わず買ってしまったのだが、しばらく放置プレイだったのだ。ようやくこないだそれを観た。

ポン引きのジャック(ジョン・ルーリー)は仲間にハメられて刑務所へ入る。ラジオDJのザック(トム・ウェイツ)もハメられて刑務所へ。そこでふたりは同房となるのだが、その無気力さというかダメダメ感が何とも言えず魅力的。舞台の町(ニューオリンズ)それ自体がすでにして廃墟的で生気もなく、そこに流れるトム・ウェイツの歌がまたいい。その何とも言えない脱力感。『ストレンジャー・ザン・パラダイス』でも言えることだが人物同士の関係は稀薄でぬるく、そのぬるさ加減がたまらない。

そのふたりの房へイタリア人イカサマ師のロベルト(ロベルト・ベニーニ)が加わるわけだが、監房でのシーンも総じてぬるい。それでもひとりロベルトのテンションが高く、コント染みていて何気に可笑しい。

そして三人は脱獄を計るのだがさしたる決意も何もなく、ただ何となく脱獄してしまうという装い。投げやりで無気力で目的もなければ動機も不明というような頗る下降的なゆるい展開で、三人は川をボートで下り湿地帯を彷徨うが、逃走というのでは決してない。ただ移動しているだけだ。途中から脱獄ということさえも無化されてしまっている。ふつう脱獄といえば決死の覚悟で行われることだろうから、団結するにしても反発するにしても人物の関係はもっと密なものになるはずなのだが、三人はぬるい関係を維持したままだ。つまりそこで前景化してくるのはまたしてもぬるい関係性だ。

カメラも三人を常にクールに捉えているのだが、それでいて突き放した冷たさというのではなく、被写体との心理的距離とでもいえばいいのか、つかず離れずの微妙な距離感を保っている。ぬるい関係をぬるいカメラで捉えているというわけだ。いや、ぬるいカメラがぬるい関係性を浮き彫りにするということか。淡々とした描写ばかりだが決して退屈ではない。とにかく不思議な空間を現出せしめている。

『ストレンジャー・ザン・パラダイス』では最後までドン詰まり感が濃厚だったが、こちらは少なくとも行くべき道だけは示されてある。とにかくどこかへ向かっては行くわけだ。決して前向きではないが後ろ向きというのでもない。結末もゆるいが、それが実に清々しい。

いやホント、面白いから観なさいよ。『ストレンジャー・ザン・パラダイス』もね!

地に落ちた

2004年01月20日

最近何だかドライアイで、三〇分もするとモニタを見ていられなくなる。ほんの僅かな風に当たっても眼にしみて涙目になるから適わない。

パソコン自体を控えねばならないのだが、それなしには小説もイラストも真面に書(描)けないから困る。菓子でも作るほかないが、菓子ばかり作ってもいられない。第一誰が食べるというのだ。サイト存亡の危機というと言い過ぎだが、眼を休めないことにはどうにもならない。とはいえサイト休止ということではないよ。

第130回芥川賞が先ごろ発表されたが、金原ひとみ(20)「蛇にピアス」、綿矢りさ(19)「蹴りたい背中」で、ずいぶんと話題になっているらしい。いずれも未読だからなんとも言えないが、それでいいのか芥川賞とちょっと首を傾げている。

活字離れ小説離れ(というか純文学離れと言ったほうが適切か)が叫ばれて久しいなか、若い書き手の登場を願う気分が業界全体にあるだろうことは頷けるが、今回の受賞者ふたりはあまりにも若い。若いからダメということはないし売れるのも結構なことだが、単なる話題作りとしか思えないしその姑息な狙いが透けて見えるようだ。

「アイドル扱いされて使い捨てられぬように」という丸山健二(作家)のコメントにそれは端的に窺え、そうなる可能性も大と見た。それで業界が潤っても作家が勘違いして潰れてしまったらむしろ損失は大きいと思われ、その作家が才能を秘めているなら尚更だ。

いや、抑も純文学を売れるものにしようとすること自体違うのではないかと思われ、そうかといって「文学なんて自業自得。だめなら野垂れ死にするつもりでやるしかない」という石原慎太郎のコメントもいまいちピンと来ない。もう疾うに形骸と化してただのイベントにすぎなくなっているかもしれぬ余命幾許もない芥川賞に期待などしても仕方ないのか。実際ここ数年はとりあえず読んどこうという気さえ起きないし。

文藝春秋芥川賞最新情報

待った?

2004年01月12日

もう無理だ。観念してしまった。というか、連載初期のものと絵柄が変わってきてしまっているしチマチマ描いていても終わらないからとりあえずけりにすることにした。というわけで『階段の軋み』最終回をupしたのだ。これで一応完結したわけだが、挿画のほうは修正するかもしれない。文章は直す気がしない、というか登場人物によって用字が異なっているからひどく込み入っているし、当の用字の対照表も手許にない(探せばあると思うが面倒臭い)し、一人称にも拘らず一行のなかで主觀が頻繁に変わるしするから不用意に書き換えられないのだ。しかもその一行がクソ長いときている。よくこんなものを書いたと我ながら呆れ返る。

とにかく終わりにしたのでいくらか気が楽にはなった。残すは『消える前』で、こちらも早いトコ片づけてしまいたいが、これはまだ半分にも達しておらず、まだまだ終わりそうにない。それでも『階段の軋み』が終わったから少しはペースアップできるかもしれない。かもしれない。かもしれない。かもしれない。かもしれない。かものはし。カモにされた。

ところで新作小説なのだが、って読めないねこれじゃ。新作小説のことだが、229枚になったがまだ終わらない。終わりそうな予感はあるのだが、どうも巧いこと収束してくれず、本当に終わらせることができるのか怪しくなってきた。

マジ、ヤバいかもしれない。かもしれない。かもしれない。かもしれない。かものはし。カモにされた。

新年早々

2004年01月01日

一向に書けぬ小説原稿を前にして新年を向かえた。茫としてる間に年が明けてしまった。思えば去年は何もできなかったような気がする。いや、何ひとつできなかったのだ。とはいえ今年こそはとかいう意気込みがあるわけでもなく、遅々とした歩みを歩むしかない、とそんなことをつらつら思いながらふらっとテレビを点けるとNHKの年越しトークに養老孟司氏が出ていたので見ていたら、共演者の作家の何某(名前は忘れた)が難民だの少年兵だのの話をしていた。何でも少年兵に仕立てるために少年に近しい者の殺害を命じるだとか、拒否すれば鼻を削ぐのだとか、年明け早々から気の滅入る話でやり切れず、途中でテレビを消してしまった。

自衞隊のイラク派兵で日本とて標的にされるかもしれぬと他人事ではないのだが、戦争やテロなどとはほとんど無縁にのほほんと生活している己が身を顧みるとこれでいいのかと思わぬでもない。自分には一切関係のないことだと割り切ってしまえるほど齷齪しているわけではないのに積極的に関わっていこうとのエネルギーもなく、そうして見て見ぬ振りしてしまう自分を不甲斐なく思い、自己嫌悪に陥るというパターン。

そんな悪循環に陥ってしまうのも偏に小説が完成しないからで、完成すればいくらか回復するだろうが、今しばらくは低迷の予感。

賀すべき日に低調な話で申し訳ない。去年も同じこと書いたような気が・・・

 雑記

miscellaneous notes 

戻る 上へ   


コピーライト