何もかも総て承知しているというような物腰が如何にもな猫は仁美の問いにすぐには答えず、見料なりそれなりの代価なりが要るのだろうかと気後れを感じつつ「見ませんでした?」と幾度目かに仁美が問うたその問いにも直接答えるというふうではなく、どこか遠くのほうを見据えたまま焦点の合わぬ視線を仁美に向けて見えたと猫は呟き、何が見えたのかと問えば探しものとの端的な答えで、どこですとの仁美の問いにはしかし妙なためらいが漂い、勿体振るな似非占い師と内心仁美が毒づくとそれを見透かしたようにギロと鋭い眼光を向けたから驚いて首を竦め、野生の勘とは恐ろしいと妙な感心を懐くとともにご託宣お聞かせ下さいとの恭順の姿勢でさらに問えば、鷹揚に首を巡らして仁美を見据えるが尚しばらく無言のままで、あるいは何か知ってるのかもと期待して待つがなかなか口を開かないので演出が過ぎるこれ以上待てないと再度仁美が問い掛けようとしたとき不意に空気が動いて「残念だけど、出てこない。諦めなさい」ときっぱりと猫は告げたのだった。諦めろと言われてそうですかと簡単に諦めることなどできないから「何とかなりませんか?」と執拗に食い下がるが無理なものは無理と決然と猫は言い放ち、そうまで断定的に言われてしまうと妙に真実らしく思えてくるし無惨に破かれたビラがそれを証拠立てるような気もしたから仁美は非常な焦躁に駆られ、弾かれたように立ち上がると忙しげに挨拶してその場をあとにするがどうしたらいいのか明確に意識していたわけでは全然なく、ウロウロと街を彷徨って眼にした猫に片っ端から声を掛け、探せばきっと見つかるはずで出てこないなんてあるはずがないそんなの嘘だ嘘だと自身に言い聞かせながら日の暮れるころまで聞き込みをつづけたが何の情報も得られず、夕飯はコンビニ弁当でいいともう一巡りするが手掛かりひとつ得ることができず、疲労とそれにも増して募る焦躁と不安とを交々抱えて帰途についたのだった。
占い猫に諦めろと告げられたことが却って仁美を捜索に駆り立てて翌日からさらにも精力的に聞き込みに廻るが、それで事態が好転するわけでもなく焦躁も深まるばかりで、ただ聞き込みそれ自体にはもうかなり馴れてきていたから眼に留まる猫に片っ端から声掛けても以前のように何も訊かぬ先から逃げられるということはなくなったが捜索範囲の拡大に伴ってガセネタを掴まされることも多く、幾度となく無駄足を踏んだしビラを見た人からの情報にも有力なものはひとつもなく、なかば諦め掛けていたしはじめて見る姿にとりあえず訊いてみようと声掛けただけだから「カラマンジー」の万治とも面識があるというその小汚い灰色のまだ若い雄にさして仁美は期待しておらず、まして自宅マンション近くでもあったことから得るものなどないだろうと高を括っていて、路地口からその奥に投げた声にも気負いはなかった。記憶を辿るように考えているその若い雄の返答を待つまでもなくすぐにもその場を離れられる体勢でなかば歩き掛けていた仁美に「ああそれならボク知ってるよ」としかしその若い雄は答え、またガセじゃないかとの訝りの視線を仁美はその若い雄に向けるが真っ向見つめ返してくるその眼は微塵の嘘もないと主張しているかに思え、ついと歩み寄りながら「ホント?」と念押すと「うん」と快活な答えで、根拠はないがこれはホントかもしれないといくらか仁美は興奮を覚え、これを逃したらしかしあとはないと逸る気持ちを抑えて「どこです?」と訊くと「こっち」と若い雄は路地の奥へと歩きだす。
そのあとについて仁美は狭い路地を入っていくが鉤の手に右へ曲がったところで背丈ほどもある塀に阻まれてしまい、これではどうにもならぬと立ち竦む仁美を若い雄はしかし気にも留めず、助走もなしに身軽に塀に飛び乗るとあとに続けと促すかに仁美のほうを振り返るが「え、ちょっと待って上れないよ私」と腰が退けて後退る仁美の困惑など知らぬげに若い雄は塀の上を歩きだし、逡巡している暇もないとなかば自棄くそで仁美は塀の上に手を掛けるが、ザラついたブロックが食い込んで痛いし足を掛けても滑ってずり落ちるしでとても無理と気力の萎えるのを無理にも奮い立たせて渾身の力で蹴りあげ、もがきにもがいて何とか馬乗りの体勢にまで漕ぎつけるがもうかなり老朽化しているのかグラグラと揺らぐ塀の上を進むことは困難で、いや、絶対に不可能とそこで根尽き項垂れてしまい、前を行く若い雄を恨みがましく眺めやればチラと仁美のほうを流し見てから塀の反こう側へと降りる構えで、よかったと安堵の吐息を洩らしつつ音もなく見事な着地を見せる若い雄につづいてこちらはしかし無様な及び腰でソロソロと足を降ろしていく。とはいえ支えになるような踏み台も何もないため足は空を切るばかりで地面にも届かず、そのうち必死にしがみついていた腕力にも限界がきて降りたというよりはだから落ちたというのが正しく、その際足裏ではなく踝(くるぶし)辺りで着地したから挫(くじ)いたらしく、そのままどうと尻餅ついて立とうとしてもうまく立てなくて幾度か産まれたての子馬のように転げながらも壁を支えにどうにか立ち上がり、挫いた左足を引き摺り引き摺り仁美は若い雄のあとについていった。
狭く汚い路地裏をどれほど歩いたかしれないが関口さんのいるという場所へは全然辿り着かず、前を行く若い雄のどこか問いを寄せつけぬ毅然とした歩きように尻込みしつつ「まだですか?」と仁美が訊くとチラと後ろを若い雄は顧みて「もうすぐ」とだけ答え、もうすぐなのかと辛抱して歩いてもしかし一向辿り着かず、そのうち方向感覚も狂ってきて今自分がどこを歩いているのかも分からなくなり、何か同じところをグルグル廻っているだけのような気がして幾度も「まだですか?」と仁美は訊くが、そのたび返ってくるのは「もうすぐ」で、こいつ何も考えてないんじゃないかと仁美は訝り、誑(たばか)られたかと幾度かもういいですと口にし掛け、そのたびしかし諦めるなと何かに背押されるように言葉を呑み込んで、疼(うず)く左の踝辺りを庇いながらしかしもう限界だと頽(くずお)れそうになったところで「ほらあそこ」と振り返りざま若い雄が言い、その示す先を窺うと非常階段裏の暗がりのそこだけしかし巧い具合に日の射し込んでいるエアコンの室外機の上に確かに猫が一匹蹲(うずくま)っているのが見えたが、それを関口さんと仁美は確認できず、そのまま先へ進もうとする仁美の足元を掠めるように擦り抜けながら「じゃボクはこれで」と引き返す若い雄に辞儀を返すと、蹲っている猫のほうへ歩み寄りながら「関口さん」と仁美が呼べば、その声に反応してピクと片耳を立ててからゆっくりと仁美のほうへ顔を向けて「やあ奥さん久しぶり」と以前に変わらぬ挨拶を返すそれは確かに関口さんだった。
とはいえすっかり小汚くなってもう他の野良と見分けもつかないくらいで、これがあの関口さんかといくらかたじろいでその場に茫と立ち尽していると「よくここが分かりましたね」と関口さんは笑い、妙にそれが四壁に反響するのを不快に思いながらその屈託なげな笑い声と同様屈託なげな視線に見つめられて言うべき言葉を仁美は失い、その側近くしゃがみ込んでも尚しばらく無言で眺めていて「足、どうしました?」と訊かれてもすぐには答えられず、再度「足、引き摺ってらしたでしょ?」と問われてああコレですかコレはちょっと挫いただけで何でもないと仁美が答えると「そうですかそれならいんですが」とそれ以上関口さんは気に掛けるふうでもなく、小さな羽虫か何かが飛び交うのを耳を振って追い払いながら眠たそうに欠伸ばかりしているのだった。しゃがみ込んだ仁美の目線と室外機の上の関口さんの目線とはちょうど真っ直ぐに交わる高さで手を伸ばせば容易に抱きかかえることもできるほどその距離は近いのだが、近さがむしろ障壁となってこの場合なんて声掛けたらいいのだろうと黙したまま仁美はもう模様だか何だか分からなくなった関口さんの毛並みを仔細に観察しているのにしばらくして気づき、そうじゃないとその眠たげな顔のほうへと視線を戻せばそれを待ち受けていたかにこっちを見ている関口さんと眼が合った。その瞬間を関口さんは捉えて逃さず「いつもご馳走して下さる方がいまして、塚本のおばちゃんて皆呼んでますが」その塚本のおばちゃんに何やら戴いたとかで、まだ少し残っているからもしよかったら「どうです? 奥さんも」いけますよと薦められ、そう言われてしかし仁美は返答に困って否とも応とも返せずにいると、奥さんにはずいぶんと世話になったからとその戴きものを取りに行こうとしたから慌てて押しとどめ、こんなビルの谷間の狭暗いところにこんなにも日が射し込むなんてと取り繕うように言えば、「そうなんですよ」絶好の場所ですと関口さんは眩しげに日射しを振り仰ぎ、もともとここは何とかいう猫の所有に帰していたらしいのだが「なぜだか知りませんがその方がね、譲ってくれたんです」と頻りに首を傾げるのに誘われてその何とかいう猫はどうしたのかと問えば「さあそれが、どこへ行ったんだか」ついぞ見掛けぬとのことで、でもなぜそんな取っておきの場所を譲ったりしたのだろうかと重ねて問えば「大方飽きたんでしょう」あるいはもっといい場所を見つけたかそのいずれかですと関口さんは答え、つづけて「私は誰かに譲る気など」毛頭ありませんと笑うのだった。
相変わらず関口さんはよく笑うとその不快な反響にいくらか眉をしかめつつ仁美は思い、いや、元気で何よりだといくらか安心して気を抜いたからか挫いた左足のほうへ体重を掛けてしまい、バランスを崩して左後方へと上体が傾ぐのをうぅうと低い呻きをあげながらヤバいともがくが体勢を立て直せないまま仁美は尻餅をつき、硬いコンクリートに強か尾てい骨を打ちつけてしばらく声もなく蹲って痛みに耐えているのを室外機の上から冷やかに眺めつつ「大丈夫ですか? 奥さん」と関口さんは言い、ええ何とかと返して仁美は身を起こすと左足を庇うように横坐りになるが不意に脱力してしまい、それが暖かな日射しのせいじゃないのは心中和やかな気分では全然ないことからも分かるがおっとり構えている関口さんに釣られてか「お元気そうで」何よりと変に悠揚な口調で言っている自分にむしろ異和を覚えるのだった。そんな仁美の気など知らぬげに「何この通り、元気です」と関口さんは上体を起こしてお座りの恰好になり、見ると確かに以前に変わらぬ精悍な体つきで少しも窶れてはいないし喧嘩して傷だらけというのでもなく、いや以前にも増してその精悍さに磨きが掛かっているようにも思えたからいくらか安堵はしたものの、もう還暦を過ぎたおじいちゃんなのだと思えばやはりひどく心配で、たとえ塚本のおばちゃんて方が世話してくれたとしてもつきっきりというわけにはいかないだろうから野良では生きていかれまいと仁美は思い、ただ虚勢を張ってるだけなんじゃないかと急に不安になりもして、そう思うと明日にもどうかなってしまいそうな気さえしてきて「ずっと捜してたんです」と急に声を荒げたから関口さんも驚いたらしくちょっと身を強張らせて「そら、悪いことしたね」としかし他人事のように言い、一呼吸おいてから「それでもね奥さん、キャットフードだって食べてみれば案外旨いもんです」と関口さんは語を継いだ。そりゃ猫だから口にも合うだろうがそんなことはどうでもいいと「奥さん、待ってますよ」と仁美が言うと不意に何か思いだしたようにそろそろ塚本のおばちゃんの見えるころだから「どうですご一緒に?」と関口さんは言い、猫の餌の相伴などできるはずもないからそれは丁重に断ってそんな餌よりも奥さんの手料理のほうが数段美味しいじゃないですかと仁美が言えば「私はほらもともと関西でしょう、だからあの人の味つけは少々濃くて」閉口してたんですと苦笑混じりに関口さんは言うと「それに較べて塚本のおばちゃんの用意して下さるお食事はそれはもう」絶品だともう意識にはそのことしかないらしく、空腹時に何を言っても無駄なのかといくらか諦め掛けながら尚も仁美は説得を試みんと「気になりませんか、奥さんのこと?」永年連れ添ってきた人じゃないですかと詰め寄れば、「何が面白いんだか、娘たちとね、いつまでも喋ってましたっけ」全体子供なんですよあの人はと口調がどこか述懐めいているのだった。