2004年上半期
06月
29日 描けそうな兆し……
01日 ぽちょむきんの弁証法
05月
26日 FOGGY'S MOODを聴け!
23日 そりゃ君、誤解だよっ
19日 何かが壊れた・・・(マジで)
07日 供出。
05日 凹むなあ・・・
04日 ペンタブ暴走!
04月
04日 『イノセンス』観た。
03月
09日 遅まきながら難民生活など
02月
14日 ペインタ8ってば・・・
11日 激重マウスよ、さらば!
01日 ぬるいのがいい
01月
20日 地に落ちた
12日 待った?
01日 新年早々
2004年06月29日
ようやっとペインタの動作が安定してきた。一時は致命的なほどにも頻出していたシステムフリーズもしなくなり、どうにかこうにかイラスト制作を再開している。不安は拭いきれないものの探りを入れるようにしてちょっとずつ描いている。元々遅筆なのがさらにも遅くなっていつ仕上がるか予想もつかないが、とにかく描けそうな兆しが見えてきたとは言えそうだ。
人心地ついて一服しながらそんなふうに考えているフキオだが、その思念を目の当たりにでもしたかに冷ややかな一瞥とともに「ふんっ」と鼻で笑うソトコはもう四日も風呂に入っていない。とても臭うのだった。そう指摘すると自身の体をクンクンしてから「そうお」と平然と言ってのけるソトコはよいしょと言ってトイレに立つ。気づかぬうちに少しずつ贅肉を蓄えているその肉体は妙に艶めかしい動きでトイレへ移動するが臭いは執拗に居座りつづけ、それこそが、その臭いこそがソトコそれ自身なのだと主張して已まないのだった。
フキオは考えていた。いや何も考えてはいなかった。考えられないのだった。べつに無理して考える必要もないと考えるフキオはもう十日も風呂に入っていない。フキオはしかしソトコのように自身の体をクンクンしたりはしなかった。まだまだ描けるとフキオは思った。
ところで笙野頼子の新著が出た。挙って買うべし!
2004年06月01日
「悪は正義を必要としないが、正義は常に悪を必要とする」
北道正幸の漫画『ぽちょむきん』を一言で表現するとそういうことになる。医者と患者に纏わるドイツの格言をもじったものとして東京都知事猪原玉緒がトレンジャー管理局局長雨鵺京四郎に言うセリフだ。今なぜ『ぽちょむきん』なのかと問われると困るが、最近妙に気になって仕方がないのだ。手に取り読み返すたびにハマっていくというのか、その面白さを再認識してなぜもっと話題にならなかったのだろうと思うのだ。
いわゆる戦隊ヒーローもの特撮ヒーローもののパロディの『ぽちょむきん』は、悪の秘密結社ゲルニッカーが正義のヒーロートレンジャーに滅ぼされてから14年後という設定で始まる。ヒーローもののパロディといえばタケちゃんマン、仮面ノリダー、結婚前提戦士ラブラブファイヤー等々と主にバラエティ番組のコントにおいてよく見られるものだが、漫画では寡聞にして安永航一郎の『県立地球防衛軍』『陸軍中野予備校』『巨乳ハンター』くらいしか知らない(東城和実『黒いチューリップ』というのがあるらしいが未見)。それらパロディはしかし概ね主人公が正義の側で元ネタに沿う形で描かれている。つぶさに調べたわけではなく自身の記憶のみに頼っているから案外そのような例もあるのかもしれないが、弱いヒーロー、ダメなヒーローという視点で笑いを取るのが普通だろう。『ぽちょむきん』はそれを反転させて悪の側に視点をおいて描いている。
トレンジャーによってゲルニック首領が倒されるとともに組織は壊滅するが、ゲルニックは最終怪人を残していて、それが一編の主人公の双子姉妹のハルカとマドカなわけだ。その保護者の漆崎辰五郎はかつてのゲルニッカー構成員で、その復興を目指して新ゲルニッカー軍団を立ち上げる。とはいえ肝心の最終怪人の姉妹がまだ怪人としては覚醒しておらず、変身能力さえないために怪人の着ぐるみで凌いでいるという体たらく。さらには漆崎(清掃担当)、菊池信之助(広報担当部長)、松沼鎮平(構成員食堂コック長)、山岸峯太郎(戦闘員寮管理人)と結集したかつての構成員らは悉く非戦闘員だ。
キャラ造形としては鳥山明『Dr スランプ』に少なからず依拠していて、「特許総合コンサルタント PATENT OFFICE漆崎」の所長という漆崎は、発明家の則巻千兵衛だし、人間離れした怪力を持つメガネっ娘のマドカは則巻アラレにほかならない。「吉祥寺のテコ入れ女王」の名を冠する漆崎の秘書大月茜はさしずめ山吹みどりといったところか。ただ『ぽちょむきん』においてはマドカや漆崎らのボケに対するツッコミとしてハルカを設定していて、それが『Dr スランプ』とは異なるところだ。固定ツッコミキャラという存在はひとりハルカだけではなく、東村山スポーツカメラマン金城高文とその助手八神カヲル(新トレンジャーレッド)に、猪原都知事とその秘書草凪と、ボケツッコミのコンビで配置されていることが多い。効率良く笑いを産出させるキャラ配置だが、要するにこれは漫才、あるいはコントの形式で、双子姉妹が恐るべき破壊力を持つ最終怪人なのにもかかわらずその変身能力の不在を理由に怪人の着ぐるみを着るところなどコントそのものと言っていい。
漆崎ら新ゲルニッカー軍団はハルカとマドカの怪人デビューを画策するが、着ぐるみを嫌って乗り気ではないハルカは元トレンジャーレッドを探しだして八百長を依頼する。妻も子供もいる元トレンジャーレッドの南城武はその依頼を断り、ハルカは已むなく自らヒーロー役をすることになる。南城から送られてきたヒーローアイテムを身につけ事に望むが、ヒーローサポート衛星「弥七」が起動し、たまたま居合わせた八神カヲルにヒーローのレッテルが貼られてしまう。その後次々と新たなヒーローが「弥七」に「見初められ」る。
ヘーゲル的弁証法に即して言えば、悪というものは主(あるじ)たる正義に使役せられる僕(しもべ)ということで、その意味で主体足り得ているわけだ。主たる正義を体現するヒーロー、トレンジャーにおよそ主体性が欠落しているのはそのためだ。作中トレンジャーが悪へと放つ攻撃なり必殺技なりが悉く偶発的なもので、トレンジャーに選ばれることも偶然で、それが幼稚園児であると犬であるとを問わないのも、その意味で必然なのだ。労働は僕のすることで主はただそこに存在してさえいればいいのだ。むしろ主は無能でなければならない。
如上の関係を踏まえれば悪が決して正義に勝つことができないのも当然の成り行きだ。つまり悪の為す悪事は正義を勝利へと導くことが前提されているわけで、またその意味においてしか悪はその存在を許されてもいないのだ。しかも僕が主を打ち倒して主の座についてしまえば最早僕ではないということになり、それは取りも直さず自らの主体性をも喪失してしまうということだ。つまりその主体性を保持しつづけるには、僕であるよりほかないのだ。
そこで問題なのは最終怪人という形で為そうとした首領ゲルニックの目的だが、正義の打倒にあるというよりはその関係の解消にあるように思える。主と僕という関係性それ自体を忌避しているようなのだ。正義に仕える悪という自らの存在様態に疑問を抱いたゲルニッカーは、一切を無に帰そうしているらしいのだ。そのために生み出されたのが最終怪人たるハルカとマドカの双子姉妹というわけだ。しかし正義に必要なのは自らに奉仕する悪ゲルニッカーであって正義を宙吊りにする悪ではない。ために猪原都知事はゲルニックの復活を急ぐわけだ。猪原都知事はいみじくも言っている、「戦わない怪人ほどヒーローにとってやっかいなものはない(第3巻第18話「血税で鴨鍋かも」)」と。つまり最終怪人とは戦うことを放棄した怪人ということで、ハルカとマドカが戦いに意欲的ではないのもそれで肯ける。その意味でこれは転向論だと見做し得る。
ヒーローと戦いそして敗れることが怪人を怪人として規定しているとすれば、最初から戦うことを封じられた怪人は怪人としての規定に反しているが、戦わねば敗れることはないしヒーローの勝利することもない。とはいえ悪を勝利へ導くこともまたあり得ないだろう。戦わずして、いや戦わぬからこそヒーローをヒーローの座に着かせないという構図。ゲルニッカーの生き残りの漆崎らが悉く非戦闘員なのも故なきことではないのだ。初詣に出掛けた漆崎の祈願にも端的にそれは窺える。「怪人である/ハルカとマドカが/いつまでも/幸せに暮らせる/世の中が/きますように。(第3巻第15話「世界征服祈願」)」。さらには「無計画の計画こそが、世を攪乱させ敵を陥れる最良の作戦」(同前)だと漆崎の言うように、漆崎ら新ゲルニッカー軍団は無自覚無計画にそれを行っているのだ。怪人としての使命を果たさぬことがその使命である最終怪人は、自らの存在を否定することでその存在を成り立たせている。その意味で最終怪人はトレンジャー対ゲルニッカーという対立構造の外部にあり、そのような外部=メタレベルに立つことで最終怪人は自由を獲得するかに見える。少なくともそれが笑いを成立させていることはたしかだ。
主の打倒を目指しつつ、それを遅延させつづけること。それが『ぽちょむきん』の作動原理なわけで、ストーリーの進展しないことがむしろそこでは希求されるのだ。主なり物語なりの内実が空虚だということをそれは証してもいて、ヒーローサポート衛星「弥七」に端的にそれは窺える。それがトレンジャーを制御しているという設定になっていて、その意味でトレンジャーという実体はただの入れ物にすぎず、まったく空虚な存在というわけだ。しかもそのシステムは壊れていて真面に機能していないらしいのだ。斯かる空虚な中心を目指す身振りこそ示すもののそこへ至ることは決してなく、その周縁を巡りつづけること。そこにこそ享楽があると『ぽちょむきん』は告げている。斯かる脱中心化の過程こそが『ぽちょむきん』の中心と言ってよく、ストーリーの遅延を嘆く読者なり編集部なりという構図も、斯かる享楽へ向けての指示項として意味を為すにすぎず、真に受けてはいけないはずだ。
抑もギャグ漫画というものは中心を指向するものではなく、中心からの逸脱を指向するものではなかったか。そこにおいて中心への指向はフリとして作用し、必然オチは別なところに見出されねばならない。抑もフリとしての中心には実体などなく、斯かる中心の不在を「笑い」へと転換するものこそギャグ漫画と呼ぶのではなかったか。そこに物語的完結などあり得ようはずはない。そして斯かる物語的完結を最初から拒んでいるのが『ぽちょむきん』なのだ。意図的にしろそうでないにしろ、作者がそのことに忠実であればあるほど、読者の期待の地平との乖離が甚だしくなるのもまた当然で、その意味では不本意な形で連載が終了せざるを得なかったのも肯ける。とはいえ、ギャグ漫画に本来的な意味での終わりなどないのだ。ただ外的な理由で終わりを迎えるだけで、それ自身の内的な理由による終わりなどあり得ない。というのもギャグ漫画には時間が存在しないからで、『サザエさん』にしろ『ドラえもん』にしろ『ちびまる子ちゃん』にしろ『クレヨンしんちゃん』にしろ常に同じ時間(円還的時間=カイロス的時間)を生きていて、その意味で彼らは死ぬことがない。
主の打倒を目指しつつ、それを遅延させつづけること。ギャグ漫画としての『ぽちょむきん』は斯かる規定のもとに無限に紡ぎだされることが可能なわけで、実際的にもそうあるべきなのだが、一編は徐々にシリアスな路線を露わにする傾向にあり、それがギャグ漫画としての遅延性を脅かしている。というのもシリアスな路線のストーリー漫画においては時間は直線的に流れ(クロノス的時間)、キャラクタは死すべき存在としてある。ギャグ漫画として始まり、ストーリー漫画として終わった鳥山明『ドラゴンボール』を見るとその変遷がよく分かる。その連載初期には則巻アラレなどが登場したりと前作『Dr スランプ』と世界を共有していたはずの『ドラゴンボール』だが、物語性の導入により(恐らくフリーザ編辺りから)カイロス的時間からクロノス的時間へとシフトしていく。登場人物も次々と死んでいき、何の理由もなく生き返ることはない。抑も『Dr スランプ』がギャグ漫画にもかかわらず表面的にはクロノス的時間を採用していて、登場人物が一年ごとに年を取り、読者と同じ実時間のうちにあった。とはいえ則巻アラレはロボットなので、その意味で死を免れているアラレ自身が無時間性のうちにあるためクロノス的時間の影響を受けずにいたわけだ。『ドラゴンボール』においても斯かるクロノス的時間が踏襲されていて、だからこそそこに物語性を導入することが為され得たわけだが、その結果『ドラゴンボール』はギャグ漫画ではあり得なくなった。というのもクロノス的時間とカイロス的時間の併置は、クロノス的時間によるカイロス的時間の囲い込みを齎すからだ。その意味で主(あるじ)たる物語性へと包摂されてしまう「笑い」は僕であるほかなく、そのことはまた主体が「笑い」の側にあることを意味している。
つまり『ぽちょむきん』はその内容だけではなく形式においても主客を転倒させているわけで、だからこそ「笑い」によって物語を脱臼させることが要求されもするのだ。その意味で『ぽちょむきん』における「笑い」のありようと最終怪人のありようとは相即な関係と言ってよく、ギャグ漫画でありながら物語性を導入した意味はそこにこそあるわけなのだが、それにもかかわらず、一編は「笑い」が犠牲にされかねないほどにシリアスな場面の比重が高まってくる。トレンジャー管理局に連れ込まれた八神カヲルが局長雨鵺京四郎に16年前のゲルニック首領上陸の映像を見せられる場面にそれは端的に窺える。そこではおよそギャグ漫画ではあり得ぬ殺戮場面がギャグとしてではなく描写されているのだ。その描写が後の展開に影響を及ぼさぬはずはなく、連続継起するクロノス的時間においては尚さら全体と繋がりを持ってしまい、それを圧してギャグを貫くには相当の強度を要するはず。
14年前、トレンジャーにより葬られようとしていたそのとき、「近い将来名前を変え」て「その姿を現す」それは「私であって私では」なく、「真の私は地下に眠っている」(第4巻第22話「ゲルニッカー首領の正体」)とゲルニックは漆崎ら四人の構成員に告げ、その地下に眠っていたのが最終怪人の二人、ハルカとマドカなのだ。ということは二人が変身するとゲルニック首領になるということになるが、果たしてそうなのだろうか? それ以前に二人は変身するのだろうか? そのとき二人は何と戦うことになるのか、トレンジャーか新たな首領か。「ゲルニック首領は、すべてを、終わらせようとしている」「自分で蒔いた種を、トレンジャーに刈り取らせるつもり」(第4巻第28話「小松崎茂氏追悼」)なのだと正義のスポンサーの京介の言うとおりだとすれば、二人はトレンジャーとなって新たな首領を倒すことになるかもしれない。単行本第4巻までで五人のトレンジャーのうち、レッド、ブラック、ピンクと三人までしか選定されておらず、残るブルーとグリーンの穴を埋めるめぼしいキャラも見当たらぬことからすれば充分それはあり得ることと思われる。ヒーローに嫉妬し「私が勝ったら私がヒーロー」と言って憚らない「目立ちたがり屋さん」(第2巻第14話「覚醒! 超高層の大変身」)のマドカにしてみれば念願成就といったところだが。
斯かる物語性の導入はしかしハルカ、マドカをしてヒーローへと転成せしめ、無限につづくはずの一編を中心=終焉へと向かわせてしまうことになりかねない。脱中心化の過程こそがその本質にほかならぬギャグ漫画としての『ぽちょむきん』にとって本来それは斥けねばならないはずの不要な要素のはずだ。恐らく作者はそのことに自覚的で物語性など一顧だにしていなかったはずだが、誤算があるとすれば読者のほうがそれに籠絡されてあらぬ期待を、何某か感動を齎すかもしれぬという不遜窮まる期待を掛けてしまったということだろう。その意味で『ほちょむきん』はその本質を理解しない読者によって葬られたのだと言っていい。とはいえ連載終了によって物語性を決定的に排することはできたわけで、その意味においては『ぽちょむきん』が最後までギャグ漫画としての構えを貫いたということはたしかだ。
単行本は4巻まで出ているが、未収録が第29話から第33話まで5話分あり、1巻あたり7話ずつの配分だからあと二回連載していれば5巻が出たのだと思うとちょっと悔やまれる。
『ぽちょむきん 1』(講談社/2000年08月)
『ぽちょむきん 2』(講談社/2001年03月)
『ぽちょむきん 3』(講談社/2001年11月)
『ぽちょむきん 4』(講談社/2002年05月)
2004年05月26日
私の好きな奥泉光氏の小説に『鳥類学者のファンタジア』というのがある。女性ジャズピアニストが第二次大戦下のドイツにタイムスリップするというSFだが、そのなかでFOGGY'S MOODという女性ジャズピアニストのオリジナル曲が出てくる。
そのFOGGY'S MOODが奥泉氏のサイトで聴ける。作曲は山下洋輔というから驚く。フルートを吹いているのは奥泉氏。曲は2バージョンあって、一曲目はわりとオーソドクスな演奏で、二曲目はちょっとモダンな感じ。完全版とされる二曲目のほうがやはりイイ。
とにかくこれは拾いもので、小説を読んだからには聴かねばなるまい。聴いたらまた読みたくなること必至。
バナール主義(告知のページで聴けます)
2004年05月23日
当サイトのアクセス数がここ数日なぜか一日150~200アクセスに達している。@nie'sへ菓子画像を投稿するとそれくらいには達するが、普段は60~70なのだ。ログを見るとMSNサーチからの検索で飛んできているらしく、しかしなぜとしばらく首を傾げていたが、試みに「h」で検索してみたら、四番目にうちがヒットした。
エロサイトらしいネーミングでもあるせいでうちへ来るのらしい。しかしトップを見てエロではないと引き返すのだろう、中まで入ってくることはないようだ。誤解を招くサイトネームは変えたほうがいいとは思うものの、いい案が浮かばない。「垂れ流し」とだけすればまだしもなのだろうが、それも何だか味気ない。英名のeffluentというのが気に入っているので、変えたくないというのが抑もある。effluentとは川や湖からの流水、工場等からの廃水や廃物、汚水を意味する語だが、廃水とか廃物とすると具体的すぎるから垂れ流しとでもするほかないのだ。
名前をつけるのって難しい。
2004年05月19日
このところシステム起動直後のフリーズが頻出している。というか九割九分がそうで、これから始めようとしているときだけに出鼻を挫くその挙動にやる気は一挙に失せてしまう。一日の再起動回数も二桁はざらで、ときに再起動不能にまで陥り、起動ディスクCDでの修復もしばしばだが、損傷箇所の根絶に至ることはなく、再発を繰り返している。コアな部分に損傷があるのは間違いないが、修復の手立ては今のところ見出せていない。なので更新はしばらく停滞するかもしれない。
2004年05月07日
眠い眼を擦りつつ食卓に就くと三歳になる娘の梨華が二人いた。二人の梨華はまったく同じ仕草でイチゴジャムをたっぷり塗ったトーストを頬張っている。横で落ち着き払ってトーストを食んでいる妻はしかし顔面蒼白で、その手は心做しか震えているようだ。無理もない。無言で椅子に腰掛けた私は無言でトーストを貪り食った。妻と眼が合うが、虚ろなその眼は何をも見ていないようだった。何か言わねばならなかったが、何も言えなかった。
それはもう決まっていることで選択の余地などどこにもなく、いや、逃げおおせた家族がいたとの噂も耳にするがたしかな証拠はなく、大概一年以内に発見され連れ戻されてしまうのが落ちで、そのような事例は枚挙に暇がなく、もう何年もそんな家族を見てきた。彼らへの風当たりは強く、その生活は次第に荒んでいく。
隠し育てることもまた無理で、誰に知らせなくても役所からの供出命令が三〇日以内に必ず届くのだ。
供出それ自体はまだ耐え忍ぶことができる。供出せねばならないのは一人だけなのだから、何もなかったと眼を瞑りさえすればそれで済む。いや、供出の事実を消し去ることはできぬのだから生涯忘れることなどできはしないだろうが、それでも耐え忍ぶことはできる。何より解せぬのは儀式を行うのがほかならぬ私でなければならないということで、自らの手で我が子を屠ることなどできようはずはない。無理だ。しかし拒否することは許されない。一人を生かすためには一人を屠らねばならないとそう役所は言うのだ。
斯かる理不尽窮まる命令を断固拒否し、一家心中を果たしたのは兄の忠洋だった。そのためうちの一族への批判もそれなりあって肩身の狭い思いをしているから、このうえ私までが何か仕出かしでもしたら、父母や妹家族、妻の親戚筋も批判に晒されることだろう。腹を括らねばならない。
口の周りをジャム色に赤く染めた二人の梨華が、あどけない表情で私を見ていた。
2004年05月05日
またファイルが壊れてしまい、小一時間の作業が水泡に帰した。フリーズした挙げ句に再起動もできない始末でマジやばい状況だが、OS Xに移行してからこっちノートンは封印してしまったため、復旧の手立てはほとんどないに等しい。復旧の見込みが立つまではペインタを控えたほうがいいのかもしれないが、そうも言ってはいられない。
とはいえ、こまめに保存しながらフリーズをやり過ごしていた矢先のことだから考えてしまう。
2004年05月04日
最近また頻繁にフリーズしている。とくにペインターでタブレット使用時に落ちる。まずタブレットが機能しなくなり、そのうちフリーズ。再起動してもものの五分もせぬうちに再度フリーズし、起動しなくなることもしばしば。そんなことを繰り返しているうちにいよいよファイルが壊れてしまった。保存途中にフリーズしてしまったためだ。バックアップしていたからどうにか元に戻せたが一時はどうなることかと焦った。
OSXを10.3.3にしてからのことで、何度もドライバをインストールし直してもみたが、しばらくは使えてもすぐにダメになってしまう。一日の再起動回数が五回、六回ともなるといい加減腹が立ってくるよ。
いつまたフリーズするかと思うと怖くて作業が捗らない。ペンタブを使用しなければフリーズしないようだが、それでは何もできない。どうしたものか?
2004年04月04日
観ちゃったよ。でも映画館で映画を観るのは何年ぶりだろう。大々的に宣伝していたからよほど混んでいるかと危惧したがそうでもなかった。全席指定だったから座れぬことはなかったのだが。
前作『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』に較べて映像の密度は格段に増しているが、ストーリー的にはかなりこぢんまりした内容になっている。そのせいで一部の不評を買っているのも分かる気はするが、本作においてはストーリーなどほとんどつけ足りみたいなものなので(初日の舞台挨拶で監督自身が大したことないと言っていた)それを嘆いてもはじまらない。単純な話をわざと難解に語っているという感想をよく見るが、そうではない。逆なのだ。観るものを思索へと導くために敢えてシンプルにしているのだ。しかもこれは原作の漫画にある話で、人形、身体、人間といった監督の持ち込んだテーマにも即している。その巧みさに関心こそすれ怒る筋合いのものではないだろう。端から物語消費は失効させられていて、代わりに膨大な引用なり緻密な映像なりといった眼も眩む情報がこれでもかというほど詰め込まれている。それら情報のすべてを読み取ることは極めて困難で、そのごく一部を選択的に拾いあげることしかできない。つまりある種のデータベース的な情報の集積体のように作られているのだ。そこから何を取りだすかは観る者の自由というわけだ。
だからこれをバトーと素子のラブストーリーとして見ることも可能で、その意味ではごく一般の思索を好まぬ向きにも監督としてかなりサービスしている感じだ。それでも前作を観ていないとちと辛いかもしれない。観なくても内容の把握に支障はないが(何せ単純なストーリーだから)、観たほうがより楽しめることは確かだろう。厄介なテーマを扱っていながらエンタテインメントとしてもそこそこ楽しめるよう作られているのはProadction I.Gの社運が掛かっているからと見た。個人的には非常に面白かった。ちっとも退屈ではなかった。
ロクス・ソルス社製の愛玩用ガイノイド・ハダリ(セクサロイド、平たく言えばダッチワイフ。お得意様への試供品という形で配布)によるその所有者殺害の事件が相次いで発生(八件)し、テロの可能性もあると公安九課が介入する。その捜査の過程で人形論、身体論、人間論等々がしつこいくらいに展開されるという筋書きになっている。
まずは検死官ハラウェイとの人形談義だ。ミスでもミセスでもないと自称する彼女の言うには、自らの理想形を求めた人間の願望として人形はあるが、もはや人間と人形とを区別することはできない。観念的にというだけではなく、現実的にも弁別不能の状態にあり、つまりサイボーグ(義体)とアンドロイド(人形)、ゴーストとAIとの弁別不能性といったところだ。子育てが人形遊びの手っ取り早い代替手段との認識に至ったハラウェイは、だらか自身子を産み育てることを禁忌とせざるを得ない。ミスもミセスも要らないわけだ。
それを踏まえて次いで死体を装うキムとの人形談義へと発展するのだが、その前にハラウェイとの談義で停滞していた物語を進行すべくヤクザ紅塵会でのアクションシーンが挿入される。ここは頗る見応えあり。音響も凄い。パンフレットにも書かれているがまさにアニメによる仁義なき戦いといった感じで、全編のなかで作画的にここが最も遊んでいるところだ。なかでもチョキチョキサイボーグは笑える。次いでバトーはコンビニで電脳ハックされるという不祥事を起こし、紅塵会での騒ぎもあって組織的支援なきままバトーとトグサのふたりだけで北端の択捉経済特区へと向かうことになる。
解剖学者の養老孟司氏の言うには都市とはそれ自体が脳の外在化したもので、すべては人の意思によって作られ、既知のものしか存在を許されないそこで自然は排除される。端的に生老病死がないものと見做されるのが都市なのだという。祝祭的雰囲気の択捉経済特区はしかしどこか退廃的で、情報集約型都市としての栄華は今や見る影もなく、無法地帯になってしまっている。斯かる都市は機能不全に陥った脳といってよく、つまりは死体にほかならない。それは巨大なオルゴールの中で死体になりすましているキムの人形死体論を暗示している。
不完全な意識しか持ち合わせぬ人間が義体化しても完全にはなれないとキムはデカルト的意識の行き詰まりを指摘し、その意味で完全なるものはむしろ自意識を持たぬ神、人形、動物だという(ちとうろ覚え)。そこでキムは人形の中に入って死体を装い、人を超越したと自惚れる。そのキムの電脳ハックにより『うる星やつら ビューティフルドリーマー』を思い出させる迷宮の堂々巡りにバトーらは填り込むが、バトー言うところの守護天使の示唆によりそこから脱し、ロクス・ソルス社のプラントへ潜入する。クライマックスだけあってここの作画も驚異的だ。暴走したガイノイドらのゾンビめいた動きが何ともいい。ただ紅塵会のシーンもそうだが、全体にアクションシーンは時間的に短く、物足りぬ感がなきにしもあらずだ。それはしかし欲張りすぎだろう。あまり盛りあげてしまっても物語消費に貢献してしまうだろうからだ。
救出した少女が何だかちょっと憎たらしいのはご愛敬として、素子との再会を果たしたバトーは再び犬との生活へ戻る。
まるで徳川五代将軍綱吉を彷彿させるお犬様映画ではある。それはそれとして人形、身体といった問題系に即して言えば義体化の果てに身体の喪失が現実となっている世界だからこそ、「私」という存在を規定する身体の問題が前景化するということなのだろう。端的に監督自身が年取って融通の利かなくなった自身の身体に意識が向いたとのことらしい。この物語はバトーが自身の身体を探す旅だと監督は言い、身体=肉体ではないとも言う。そもそもバトーには肉体がほとんどないのだから自身の内部にそれを見出すことは不可能で、外部の他なるものうちに見出すほかなく、それは喪失した肉体の欠如の穴を埋める象徴的身体の獲得ということだ。その意味で他なるものの導入を拒む検死官ハラウェイもキムも自家撞着の袋小路に陥るほかない。
本作においてはテーマに即して人と人形とは差異化して描かれているが、本来サイボーグのテクノロジーとアンドロイドのそれとに違いはないはずで、その意味で義体とは人にも人形にも擬態するものなのだ。ゴーストの有無が唯一その弁別可能性を示してはいるが、それさえ最早曖昧になっていることは検死官ハラウェイの言及に見たとおりだ。斯かる交換可能な部品としての身体は端的にラカンの鏡像段階論における寸断されたバラバラの身体を思わせる。
とはいえラカンはほとんど知らないので手持ちの解説書を参照するほかないが、それによると人は神経系の未発達なまま生まれてくるため身体が寸断された不安定な状態にあり、生後6ヶ月から18ヶ月の乳幼児は鏡に映った自己を他者と思いなし、次いでそれが自己像であることに気づき、その鏡に映った自己像に同一化することで自己の統一性を獲得するというもの。その意味で人を模したある種鏡像とも言える人形とは自己を欠如として他者のうちに見出さねばならない主体そのものを端的に示していて、劇中破壊される人形らがその内部の空虚であることを執拗なまでに晒すことからもそれは肯ける。
さらに母子一体的な段階にある子供は母の欲望の対象たろうと渇望するが斯かる欲望の対象は母のうちにも自身のうちにも見出せず、母子関係の中でそれを満たすことの不可能を知る。斯かる不在は父の名においてファルスとしてその可能性のうちに見出される。子供はそれへと想像的に同一化するが、ファルスとは母に欠けたものとしてそれ自体実体を欠いた欠如の記号にほかならず、斯かる特権的シニフィアンたるファルスの獲得により母子関係の外へ出ることはできるものの、欲望の対象としてそれ自体を手にすることは不可能となり、シニフィアンの連鎖の中を彷徨いつづけることになる。
概略そういうことらしいが、これを敷衍するとこうなる。
自身の前から姿を消してしまった素子という一人の女性をバトーは終始思い、その喪失に打ち拉がれている。その喪失したものとは、それとの同一化によってすでに自己の一部と化した内的な自己像にほかならない。素子の喪失が、バトーに自身が欠けた存在であることを気づかせ、さらにはその不在を埋めるために素子の欲望の対象たろうとする。しかし物語終盤、再会を果たした素子に「お前、幸せか?」とバトーが問うのに対して「今の私に葛藤はないわ」と素子は答えている。端的にそれはバトーが素子の欲望の対象たろうとしても叶わぬということを意味し、バトーは己が欲望を断念せざるを得ない。
ここで『2501』について触れておかねばならない。『2501』とは素子とバトーとの再会の合図として前作において交わされたもので、バトーと素子を唯一繋ぐものとしてあるのだが、抑もこの『2501』とは素子と融合した人形使いと称するAIのプログラムコードで、その意味では二人の間を分かつものでもある。接続の契機としてありつつ切断を齎すものがこの『2501』ということだ。つまり想像的な鏡像の支配する自己愛的世界から、父の名(人形使いあるいはネットそれ自体)において象徴的な欠けた代理表象の世界へシフトすると。そしてバトーは欲望の対象を飼い犬のうちへと備給するのでした。フォロミィ~、フォロミィ~♪
ということはこれはバトーの去勢の物語だったのか? というか、支離滅裂……(いや映画じゃなくてこの文がだよ)
『ラカン 鏡像段階─現代思想の冒険者たち13』福原泰平著(講談社刊 1998年)
2004年03月09日
突然連合国軍によって日本が攻め込まれる。日本の殲滅を目的としたものらしい。列島は完全に包囲され、東京は壊滅し、日本人は総難民化する。吉田知子著『日本難民』はその難民生活を描いている。「起こり得るかもしれない地獄絵の近未来」「予見的問題長編」と帯にはあるが、全然起こり得る話ではないしさして予見的でもないと思われる。ただもし仮にそういうことが起きたとしたら日本がそれに真面に対応できぬだろうことは何となく予感されもするから怖い。奥付を見ると初出誌「新潮」二〇〇二年十月号とあるから発売は九月七日ということで、その四日後の九月十一日には例の米テロが起きていて、それが書かれた背景もそれなりに分からないではない。その意味では予見的ということがある程度妥当するようにも思われる。
とはいえ、日本殲滅などということはほとんど起こり得ぬ事態だろうから読者を納得させるだけの政治的背景を描こうとしてもリアリティーの保証はできないと思われる。実際難民として避難する主人公の一人称で話が進められるから攻める側の描写は一切なされず、その理由すら明らかにはならない。日本人が信仰を持たぬからだと説明されてはいるが、それすら確たる情報としてではなく、噂めいたものとして聞かれるにすぎない。ある種のシミュレーション物を期待した読者はだから速攻で裏切られることになる。むしろ斯かる類いのリアリズムを排除することで、テロやら何やらで物騒な世界情勢から誰もが何とはなしに懐いている漠たる不安に相即する形で難民の内面のリアリティーというようなものを現出せしめているのだろう。
政治的背景が描かれないから作中における政治的解決もあり得ないわけだが、明確に名指すことのできない敵の存在が却って不気味に支配していて、名状しがたい怖さがある。抑も敵の連合国側は日本という国家を解体せんと目論んいるようではないらしいのだ。単に国家を解体させるということが目的なら政治的にほかの選択肢もあるわけで、わざわざ最も強硬な武力制圧という挙に出る必然性はなく、況してそれへ至るほかない政治的緊張というような前兆も一切ないのだ。少なくとも作中においてそれが存在している、していたという描写はない。つまり一切の原因性を見出せぬ脅威なわけで、「日本が世界中の憤懣の捌け口にされ」たと作中で言われているように、まったく不条理窮まりないこととして受けとめるほかなく、上にも示したようにそこにはほとんどリアリティーがない。抑も作者はそんなことを描こうとしているのではないだろう。
とにかく主人公は逃げつづける。三十年連れ添った夫と隣人のシンパラ氏とともに車で寂れた温泉宿かなんかに避難する。それでも最初はあまり切迫した感じではない。
木々の甘いにおいがした。おいしい空気、と私は言った。これで腹も落ち着いたし、ゆっくり温泉にでも入って寝るとしようか、と夫がのんびりと言う。この味噌は味がいいですね、とシンパラ氏はおもねるようなことを言った。今度うちでもこれを買わせよう。どこで買ったのですか。
高浜デパートよ。天王って味噌。わりと高いんだけど、わざわざ買いに行くの、と返事をしてから変な気がした。今度というのがあるのだろうか、高浜デパートへまた行くことがあるのだろうか。(32頁)
しかし毒やガスに追われ、ついには食料も尽き果て、というふうに徐々に追いつめられていく。それでも万事上のような調子がつづいて、避難生活の非日常的日常とでも言えばいいのか、その細々した生活の細部が実に面白い。
敵の実体が不確かだからかこの現象それ自体が何だか自然災害のようにも思えてくる。前半の温泉宿での避難生活において主人公らは一夜台風に見舞われるのだが、その後もその延長線上にいるような感じがしないでもないのだ。もちろんその脅威は台風の比ではなく、一夜明ければ快晴というようなわけにはいかないが、敵への怒りとか憎悪とかそういった感情さえ主人公らには見られないということも被災者という印象を強くさせる。だからこれはある種のサバイバル小説といえる。とはいえ、決定的に生還の見込みのない不毛なサバイバルだが。
ちょうどこれを読んでいるときに、中井久夫著『分裂病と人類』(東京大学出版会 1982年)を併読していたのだが、著者はそこで木村敏を参照しつつ分裂病親和性として「先取り的な構えの卓越」というようなことを、あるいは著者自身の言として「もっとも遠くもっとも杳(かす)かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する」ということを述べている。変化の傾向を予測的に把握する未来先取り的なそれを微分回路的認知とも言っていて、過去の集積としての積分回路的認知と対置している。
もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じるとは、端的にこの小説のことを指しているようだ。あり得ないと言って一笑に付すことができないのは、その兆候を少なからず共有しているからではないだろうか。
『日本難民』(新潮社刊 2003年)
2004年02月14日
使用アプリも大概揃ったので、本腰入れてOS Xをメインに使うことにする。大枚はたいて買ったのに全然使わないのでは勿体ない気がするからだ。それにOutlook ExpressもInternet Explorerもサポート終了してしまったということもあって、実際的にも移行せざるを得ぬ状況だということもある。
というわけでペインタ8を久々に使ってみる。ペインタにかぎらずペンタブを使うアプリは大概そうなのだが、右手にペンを持ち、左手をキーボードにおいてショートカットキーでツール等変更しながら描く。ことに着彩するときにはブラシサイズを変更したり画面を拡大縮小したりポインタツールに頻繁に切り替えて画面から色を抽出したりするからなくてはならぬ機能と言っていい。
そこでしかし不具合が生じるということに気づいた。ショートカットキーによるポインタで選択して描画すると変なものが画面に現れるのだ。下図にあるように半透明の四角な形がペンに追随して現れてくるのだ。コマンドZで取り消しすると消えるのだが半透明に描画されているというわけではないようだ。それでも二回に一回は出てくるし、いったん出たら自然には消えないようなのでウザくて仕方がない。これまでこんな現象は見られなかったはずだが、急にどうしたというのだろう。不可解窮まりない。
ひとつ問題をクリアしたと思ったらまたべつな問題が生じてくる。こんなことではまたOS 9へ戻ってしまいそうだ。大丈夫か?
2004年02月11日
久しぶりにOS Xを起ち上げてみたが、激重マウスに10分で音をあげた。どうにも肩が凝って仕方がない。とはいえいつまでもOS 9というわけにもいかないし、というかフリーズ再起動が日常茶飯な状態なのでそろそろ移行を考えねばならない。マウスが変われば少しはマシになるかと、とりあえず新しいのを導入してみた。
サンワのイオ(MA-WIH2DS)だが、使用感はそれほど悪くない。使い馴れたOS 9のマウスの快適さに較べたら違和感のあることは否めぬが、OS Xの激重よりは全然使える。ところがワイヤレスなのでマウス本体に電池を入れねばならず、単三電池二本の入ったマウスはやはり重い。ドライバの激重は緩和したがマウス本体が激重になってしまった。それでもあまり浮かさないようにすればいいし、馴れの問題もあるだろうからしばらく様子を見ることにする。
2004年02月01日
ジム・ジャームッシュ監督の『ダウン・バイ・ロー』(1986年製作 米・西独)をDVDで観た。『ストレンジャー・ザン・パラダイス』とセットでずいぶんリーズナブルだったので思わず買ってしまったのだが、しばらく放置プレイだったのだ。ようやくこないだそれを観た。
ポン引きのジャック(ジョン・ルーリー)は仲間にハメられて刑務所へ入る。ラジオDJのザック(トム・ウェイツ)もハメられて刑務所へ。そこでふたりは同房となるのだが、その無気力さというかダメダメ感が何とも言えず魅力的。舞台の町(ニューオリンズ)それ自体がすでにして廃墟的で生気もなく、そこに流れるトム・ウェイツの歌がまたいい。その何とも言えない脱力感。『ストレンジャー・ザン・パラダイス』でも言えることだが人物同士の関係は稀薄でぬるく、そのぬるさ加減がたまらない。
そのふたりの房へイタリア人イカサマ師のロベルト(ロベルト・ベニーニ)が加わるわけだが、監房でのシーンも総じてぬるい。それでもひとりロベルトのテンションが高く、コント染みていて何気に可笑しい。
そして三人は脱獄を計るのだがさしたる決意も何もなく、ただ何となく脱獄してしまうという装い。投げやりで無気力で目的もなければ動機も不明というような頗る下降的なゆるい展開で、三人は川をボートで下り湿地帯を彷徨うが、逃走というのでは決してない。ただ移動しているだけだ。途中から脱獄ということさえも無化されてしまっている。ふつう脱獄といえば決死の覚悟で行われることだろうから、団結するにしても反発するにしても人物の関係はもっと密なものになるはずなのだが、三人はぬるい関係を維持したままだ。つまりそこで前景化してくるのはまたしてもぬるい関係性だ。
カメラも三人を常にクールに捉えているのだが、それでいて突き放した冷たさというのではなく、被写体との心理的距離とでもいえばいいのか、つかず離れずの微妙な距離感を保っている。ぬるい関係をぬるいカメラで捉えているというわけだ。いや、ぬるいカメラがぬるい関係性を浮き彫りにするということか。淡々とした描写ばかりだが決して退屈ではない。とにかく不思議な空間を現出せしめている。
『ストレンジャー・ザン・パラダイス』では最後までドン詰まり感が濃厚だったが、こちらは少なくとも行くべき道だけは示されてある。とにかくどこかへ向かっては行くわけだ。決して前向きではないが後ろ向きというのでもない。結末もゆるいが、それが実に清々しい
いやホント、面白いから観なさいよ。『ストレンジャー・ザン・パラダイス』もね!
2004年01月20日
最近何だかドライアイで、三〇分もするとモニタを見ていられなくなる。ほんの僅かな風に当たっても眼にしみて涙目になるから適わない。
パソコン自体を控えねばならないのだが、それなしには小説もイラストも真面に書(描)けないから困る。菓子でも作るほかないが、菓子ばかり作ってもいられない。第一誰が食べるというのだ。サイト存亡の危機というと言い過ぎだが、眼を休めないことにはどうにもならない。とはいえサイト休止ということではないよ。
第130回芥川賞が先ごろ発表されたが、金原ひとみ(20)「蛇にピアス」、綿矢りさ(19)「蹴りたい背中」で、ずいぶんと話題になっているらしい。いずれも未読だからなんとも言えないが、それでいいのか芥川賞とちょっと首を傾げている。
活字離れ小説離れ(というか純文学離れと言ったほうが適切か)が叫ばれて久しいなか、若い書き手の登場を願う気分が業界全体にあるだろうことは頷けるが、今回の受賞者ふたりはあまりにも若い。若いからダメということはないし売れるのも結構なことだが、単なる話題作りとしか思えないしその姑息な狙いが透けて見えるようだ。
「アイドル扱いされて使い捨てられぬように」という丸山健二(作家)のコメントにそれは端的に窺え、そうなる可能性も大と見た。それで業界が潤っても作家が勘違いして潰れてしまったらむしろ損失は大きいと思われ、その作家が才能を秘めているなら尚更だ。
いや、抑も純文学を売れるものにしようとすること自体違うのではないかと思われ、そうかといって「文学なんて自業自得。だめなら野垂れ死にするつもりでやるしかない」という石原慎太郎のコメントもいまいちピンと来ない。もう疾うに形骸と化してただのイベントにすぎなくなっているかもしれぬ余命幾許もない芥川賞に期待などしても仕方ないのか。実際ここ数年はとりあえず読んどこうという気さえ起きないし。
2004年01月12日
もう無理だ。観念してしまった。というか、連載初期のものと絵柄が変わってきてしまっているしチマチマ描いていても終わらないからとりあえずけりにすることにした。というわけで『階段の軋み』最終回をupしたのだ。これで一応完結したわけだが、挿画のほうは修正するかもしれない。文章は直す気がしない、というか登場人物によって用字が異なっているからひどく込み入っているし、当の用字の対照表も手許にない(探せばあると思うが面倒臭い)し、一人称にも拘らず一行のなかで主觀が頻繁に変わるしするから不用意に書き換えられないのだ。しかもその一行がクソ長いときている。よくこんなものを書いたと我ながら呆れ返る。
とにかく終わりにしたのでいくらか気が楽にはなった。残すは『消える前』で、こちらも早いトコ片づけてしまいたいが、これはまだ半分にも達しておらず、まだまだ終わりそうにない。それでも『階段の軋み』が終わったから少しはペースアップできるかもしれない。かもしれない。かもしれない。かもしれない。かもしれない。かものはし。カモにされた。
ところで新作小説なのだが、って読めないねこれじゃ。新作小説のことだが、229枚になったがまだ終わらない。終わりそうな予感はあるのだが、どうも巧いこと収束してくれず、本当に終わらせることができるのか怪しくなってきた。
マジ、ヤバいかもしれない。かもしれない。かもしれない。かもしれない。かものはし。カモにされた。
2004年01月01日
一向に書けぬ小説原稿を前にして新年を向かえた。茫としてる間に年が明けてしまった。思えば去年は何もできなかったような気がする。いや、何ひとつできなかったのだ。とはいえ今年こそはとかいう意気込みがあるわけでもなく、遅々とした歩みを歩むしかない、とそんなことをつらつら思いながらふらっとテレビを点けるとNHKの年越しトークに養老孟司氏が出ていたので見ていたら、共演者の作家の何某(名前は忘れた)が難民だの少年兵だのの話をしていた。何でも少年兵に仕立てるために少年に近しい者の殺害を命じるだとか、拒否すれば鼻を削ぐのだとか、年明け早々から気の滅入る話でやり切れず、途中でテレビを消してしまった。
自衞隊のイラク派兵で日本とて標的にされるかもしれぬと他人事ではないのだが、戦争やテロなどとはほとんど無縁にのほほんと生活している己が身を顧みるとこれでいいのかと思わぬでもない。自分には一切関係のないことだと割り切ってしまえるほど齷齪しているわけではないのに積極的に関わっていこうとのエネルギーもなく、そうして見て見ぬ振りしてしまう自分を不甲斐なく思い、自己嫌悪に陥るというパターン。
そんな悪循環に陥ってしまうのも偏に小説が完成しないからで、完成すればいくらか回復するだろうが、今しばらくは低迷の予感。
賀すべき日に低調な話で申し訳ない。去年も同じこと書いたような気が・・・