Effluents from Tomokata=H

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04

生徒らの手垢に塗れて黒ずみ汚れているがそれだけに形は捉えやすいそのマルスは好んで紀子の描いていたものだが、あまりそればかり描くから「マルスばっか描くな」と叱られたほどで、このようにまたそれを前にしたらそれら記憶がドッと溢れて来そうなものだが総ては虚構とでもいうかに手応えあるものとして浮かび上がるものはなく、誰のものとも知れないような稀薄なものばかりなのに戸惑うが画用紙から鉛筆を離すことはなく、ブランクがあるとはいえ長年馴れ親しんだことだから手はスルスルと勝手に動いてマルスを構成していくが没入しているわけでは決してなく、意識は常に知恵美へと還流してその分離した首と胴体がマルスの前に現前するし画用紙の上に現前して首と胴体のブチ切れたマルスを幻視さえしてしまい、気づけばマルスを二分する線をその首に描き込んでさえいてすぐに消すがそこで手が止まってしまってそれ以上先へは進めず、ひどく不恰好なマルスになって気晴らしにも何にもならず、むしろ鬱屈の増したことを紀子はひどく後悔してイーゼルに凭れ掛かるように項垂れ、反省ザルの太郎かとそれを自嘲的に笑いながらしかし笑い顔には程遠く、その鬱屈する様を総て見ていたのだろう「出よう」とその肩を抱かれて一瞬紀子は身を竦め、次いで抗うように肩を揺すって振り払おうとし、このまま描き続けることの不可能もしかし分かっているし描き続けたいとの慾求が強くあるわけでもないのだがなぜかこの場所から離れがたく、恵美が生前ここを特別な場所のように感じていたらしいのが分かるような気がし、知恵美が復活再生するとしたらこの場所をおいて他にないのではと紀子は思い、そうとすれば尚更ここから離れるわけにはいかぬと頑強にイーゼルから離れようとしない。生徒らに訝られて困惑げに「頼むよ」と懇願されてもこればっかりは譲れぬと固執するが、険悪なムードになってきたから仕方なく紀子は席を立ち、徳雄先生に牽引されるようにアトリエをあとにするが知恵美のことが念頭から離れず、その首と胴体が果たして繋がっているのかそれが気掛かりで「飯食いこ、飯めし」と連れてかれる道中もほとんど視野の内にはなく、何か視野全体が端のほうに偏ってしまったような印象で、後部座席右で茫とガラス面を見るような見ないような紀子のその憂い顔を払拭せしめんと「旨いもん食やヤなことも忘れる」とテンション高めて徳雄先生は言うが、その言葉はしかし半透明の恵美の霊を思い出させたし徳雄先生を通して見えぬ恵美の霊がそう言っているようにも思えたから紀子のテンションが高まることはなく、食欲も全然ないし何食べたって一緒だから適当に頼んでと徳雄先生に任せて紀子はメニューを閉じ、その注文するのを茫と眺めながら店内に瀰漫する雑多な料理の匂いにムカついて一口も食べられないかもと挫(くじ)けるが、まず配膳されたビールを飲めばそれでも少しくらいは食べられそうな気がして食べればその鬱屈も晴れるか、晴れないまでも緩和するかとハイピッチで飲み、そのように暴走気味の紀子を気に掛けながら徳雄先生は押しとどめることはなく、釣られて飲んだせいか一品目の料理がくる前に強か酔ってしまう。

眼前に配された東坡肉(ドンポォロウ)の脂ぎった艶に紀子はムカつきながら新たに購入した桐箱に知恵美を移し替えるという着想が不意に浮かび、自分と知恵美との関係強化をそれは補完するに違いなく、そうとすれば今すぐにでも移し替えねばならない飯など食ってる場合かと「化粧直してくる」と紀子はトイレに立ち、個室に入って蓋をしたまま便座に腰掛けて膝の上にふたつの桐箱を並べ置くが、いざ蓋を開ける段になると怖じ気づいて手が伸びず、酔いのせいもあって動悸は激しく強烈に脈搏つこめかみを押さえて長いこと逡巡し、これじゃウンコだと思われると変に気を廻しなどしているうちにも無為に時間は過ぎていき、ウンコと思われるのは嫌だとそっと蓋を開けるがやはりまだソレは二つに分断されたままで、瞬時に酔いは醒めてしまうが感情の波立ちはなく怒りも悲しみも忘れたようにそれを紀子はただ眺め、事務的な作業とでもいうかにまず胴体を移してから首を移して密着するように整えて蓋を閉めるという手順を淡々と行い、儀礼的に手を合わせて拝むとそこで初めて大業を成し遂げたというような安堵を覚え、個室から出て鏡に向かうとしかしひどく青褪めた自身に出喰わして「不細工」と罵りつつ手早く化粧を直して戻るが席に着くとすぐ「長かったな、ウンコ?」とあからさまに訊く徳雄先生に違う違うと紀子は否定し、「手洗った?」とさらにも興じる徳雄先生に「洗ってない」と紀子が答えると糞した手で海老の殻剥くのは頂けないと半笑いで注意し、自分のだからいいのと向きになればスカトロ趣味かと下卑たことを言ってひとり笑う。常なら上乗せして返すくらいなのに今は全然受けつけず、殻を剥く手が不意に止まって「笑えないよソレ」と紀子が呟くと「そっか」と言ったきり無言で殻を剥き無言で食べ、気詰まりなわけではないにしろ飯の不味いのには堪えて「スカトロとか言うから」と難じると「なんかあったのか?」とそこで初めて徳雄先生は問い、今までそれを避けていたわけではしかしなく紀子の訊くなとの素振りに踏み込めなかっただけで、ここまで来てはしかし放置できぬと話してくれるよう言ったのだが別に何もと紀子は避け、そんなはずはないだろう最近小セミナーにも「なんか全然行ってないみたいだし」教団とうまくいっていないのかと直截に訊かれて紀子が黙していると答えられないのは何かあったからだ「そうだろ?」と徳雄先生は詰め寄り、日下らの言いなりになることはないし休息も必要で「何かあったとかそういうわけじゃ別に」ないと紀子が否定すれば「じゃどういうわけ?」と訊かれてこれ以上隠し果せぬと「首が切れて」と言うが見たところ大したことはなさそうだが心配なら医者に行ったほうがいいと勧めると「私じゃなくて」とテーブル上の小皿を脇に除けてバッグを置くと中から桐箱を取りだして「知恵美が」と紀子は言い、その桐の箱をスイと押しやりながら「駒井です」との押し殺した声を聞きつつそっと蓋を開ければ紛れもなく知恵美で、箱の中をじっと見つめたまま「駒井さんが奪い返したの?」と訊く徳雄先生に「そうじゃなくて駒井がやったんです」と言えば「ひとりでか? やるもんだね」と勘違いも甚だしく、奪回したのではなく先週宅配で送られてきたのだと告げると「何で教えてくれなかった?」と徳雄先生は言い、電話があったあとに送られてきたのだしその後は巧く連絡もつかなかったからと素直に「ご免なさい」と詫びれば謝ることはないと徳雄先生は恐縮したように言う。

それよりもっと詳しく教えてくれと乞われてその後の顛末なり事務所での駒井との遣りとりなりを告げると「え、何ともなってないけど、ちゃんと繋がってるし首」と紀子のほうに押しやる箱を「ウソ」と言いつつ差し覗く勇気がなく、分離した首と胴体を見るだけかもしれぬしさっきの今で繋がるはずはないとその不安から箱を掌で覆い隠し、見たいが見たくなく、見たいと見たくないとを同時に満たすことはしかしできぬからいずれは見ねばならないのだが、逡巡しているうち「どうした?」と徳雄先生の声が掛かって「自分の眼でほらちゃんと確かめろ」と促されて覆った掌に淡い光の温もりを感じるから死んではいないとその復活再生を念じつつゆっくりと紀子は手を除けると、分離していた首と胴体は見事にひとつに接合していて、そのことにまず驚くが知恵美=メシア=天皇の灼かな霊験のその絶大な力に改めて感服し、感服しつつもしかし信じられなくて夢の延長と妥当な推測をするが、祈念していた当のことを眼前にしながら否定するのはやはり変だし不誠実で、理屈に合わぬというならその存在からしてすでに条理の埒外にあるのだから無視できると一方で紀子は思いもし、積極的に肯定すべく努めるが口にしたのは「ウソでしょ?」で言いながら自身慌て、その淡い光に眼眩んだとでもいうように眼をパチクリさせるが「ウソってことないでしょ」と答える甲高な声を聞いてその確かな生を確認する。それでも「ウソだ」とまた呟いてその接合部分を間近に眺めると綺麗に癒着しているその部分は端から分断などしていないかに傷跡さえなく、これはやっぱおかしい変だと桐箱を卓に置くとどこからが夢なのかどこから錯乱したのかと紀子は記憶を辿り返すがその分岐点に至ることはなく、救いを求めるかに徳雄先生を見るとこれが現実と言わぬげに幾度も強く頷き、灼かな霊験の力なのか出来事それ自体が自身の錯乱のせいなのかそれがもひとつ紀子には判然としないがその強い頷きと「変な夢でも見たんじゃないか?」との徳雄先生の言葉に押される形で眼の前のこの事態こそが変な夢だと一点疑念を残しながらも繋がったんだから総てはチャラだと思うことにし、全体気の廻し過ぎなのだと以前の道化を取り戻すべく「チャラチャラ」と笑うと今までバカになっていた鼻が急に利きだして空腹を刺戟し、紅焼獅子頭(ホンシャオシズトウ)やら古老肉(グゥラオロウ)やら蝦醤炸鶏翅(シャジャンジャアジイチイ)やら鍋貼(グオティエ)やらに箸を伸ばしてバクバク食べだす紀子に負けじと徳雄先生もピッチを上げ、知恵美帰還の祝いだと追加注文して羽目外れ、それでも途中幾度も「知恵美」と呼び掛けて「何?」と答えるその声に紀子は少しずつだが確かな手応えを感じ、粗方料理を食べ尽す頃には本部事務所での顛末を錯乱妄想の領域に押しやって膨れた腹を抱えて徳雄先生に撓垂れ掛かり、知恵美の復活が叶ったからには半透明の恵美の霊の復活はなかば叶ったも同然と短絡してその不在の隙を見てというのではないが久し振りで旺盛なセックスをヘトヘトに堪能して自宅マンション五〇五号室に紀子は帰宅すると桐箱を神棚に据えて御神酒を供え、その再生を祝して柏手打って拝み、そのようにして幾度も幾度も拝み倒してそのうち何に対して拝んでいるのかも分からなくなるがただ拝み念じるのは拝まずにはいられぬからで、「そんな拝んだからって何も出ないよ」と甲高に知恵美は笑うが、それでも拝むことに歓びを感じるし拝むほどにそれは弥増すからひとり紀子は延々拝み、それ以外は茫とベッドの縁に凭れて坐って無音のテレビ画面の光を浴びるだけで何もせず、時折憑かれたように「知恵美ぃ」と呼び掛け、そんなふうにして寝る前の幾時間を過ごすと正常な時間感覚もなかば喪失したようになってある種時間を超越した知恵美に同期したかに思えるのだった。

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