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闇の中を果てなくつづく階段は杉の香に満ち溢れている。濃厚なその香りにえも言われぬ陶酔を覚えながら聡志と春信の二人は上を目指して直上る。
踊り場の部屋での休息中、不意に人語を解する柴犬似の雑種の犬の訪問を受けて二人は相応に驚くが、何が起きても不思議はないと受け入れ、二者一犬で階段を上り始めた。さらに上るうち柴犬似の雑種の犬が人の匂いを嗅ぎつけ、探り当てた部屋で出会ったのは蒲団が肉体の一部と化した男だった。カゼが長引いて寝込んだのが抑もの始まりで、否応なく蒲団とともに生きることを余儀なくされた男は、ほとんど外出不能で鬱々と家に籠って生活していたという。好意を寄せていたコンビニの女性店員に蒲団のことを指摘されたことでその間の記憶を失い、そのことでひどく苦悩していたが、そのすべての原因が蒲団なのだということに絶望した。さらには家族にも疎んじられ、家を出て放浪の果てに階段へ訪れたのだった。
そして三者と一犬で階段を上ることになるが、先頭を上っていた柴犬似の雑種の犬がいつの間にか宙を舞い、顛落してしまう。軋みの愉楽に歓喜しその愉楽をもたらす階段を歎称せずにはおかない階段のフリーク信奉者たちを階段はなぜ悉く落すのか、いかなる理由があって皆悉く落ちねばならないのかが春信には分からなかった。階段は世界の最も最下層にある受け皿で、そこを潜り抜けて新たに転生するための通過点となる煉獄の装置ではないかというのが春信の認識だっだ。導かれたとの思いはしかし誤りで、残忍な顛墜の魔というのがその本性ではないかと春信は空恐ろしくなる。とはいえ鬱いでいてもはじまらないと軽快な軋みで柴犬似の雑種の犬の手向けにしようと上るが、思ったほどの成果はなく、踊り場の部屋で休息を余儀なくされる。
踊り場の部屋での無為な数時間ののち食事となるが、箸は進まず会話に覇気なく、それは柴犬似の雑種の犬の不在のためで、皆悶々と黙り込んでしまう。そんななか、ひどく屈託している聡志と春信の様子に居たたまれず、蒲団男は席を外す。
聡志と春信には共通の思い出があった。小学生の折、この階段の賭場口に当たる掘っ建て小屋に二人で一夜を過ごしたという思い出があった。しかし聡志と春信にはそれについて何ひとつ一致する記憶がなく、どれほど記憶を摺り合わせようとしてもそれができなかった。その二人の前に、二人が小屋で過ごしたその日に行方不明になった尚義が十歳当時の姿のまま現れる。二人はその姿を凝視するが、尚義は何も言わずただ黙って坐っているだけで、すぐに掻き消えるように部屋を出ていった。
尚義がここに出てきたということは、尚義がこの階段に来たということなのかもしれないと春信が言うと、あり得ないと聡志は強く否定する。臆病で弱虫で泣き虫でウンコ垂れとまで言われたあの尚義がここにくるはずがないと聡志は言う。
翌日の登攀は快調で心地よい軋みのうちに一日を終え、片隅に一台設えられていた業務用のカラオケ機材のために四畳半は一段と狭かったが、初めてという蒲団男は興奮してその肉蒲団を上気させるほど楽しみ、それに水を差すのも悪いと聡志も春信も黙って聴いていた。
突然勢いよくドアが開き、「うるさいじゃないか、その下っ手糞な歌を今すぐやめろ」と大声で怒鳴り散らしながらドカドカ侵入してきたのは人ではなく、動くマネキン人形だった。
小説/literary fictions
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