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闇の中を果てなくつづく階段は杉の香に満ち溢れている。濃厚なその香りにえも言われぬ陶酔を覚え、どっぷりそれに浸りながらも私は上を目指して直上るが、踊り場で休憩がてらビールを飲み煙草を燻らすと、上下に広がる闇のその闇深さに戦くのだった。闇に閉ざされている閉塞感からなのか、私の脳裡には過去の記憶が何の脈絡もなく浮かび上がっては消えていく。ありとある記憶の中で、しかしいつまでも残存して消えないのが、夜空に青い真ん丸の月の浮かんでいる寒々とした夏夜の光景だった。
至福の極みとも思える階段だが愉楽享楽ばかりではなく、相応の苦しみをも夜毎私は味わう。顛落の恐怖のために見る悪夢がそれだった。上る者にとって落ちる夢は宿命なのかと遣り切れない思いが胸中に溢れだして毎度のことながらうんざりする。しかしそれは弛みない愉楽と引き替えなのかもしれないとなかば諦めてもいる。それでも毎朝毎朝人形のような自身の顛落死体を嫌というほど眺め廻してから目を覚ますのにはやはりかなりの抵抗があるのも事実だった。
それでも私はひたすら上を目指して階段を上るのだった。上り詰めたその果てに何があるのかまるで分からないのにも拘らず。いや、そんなことはどうでもよく、えも言われぬ陶酔が全身を隈なく覆い尽すとこのままずっと永遠に上り続けられればいい、そのためになら総てを捨てても惜しくはないとさえ思うのだった。
そんな私の前に不意に訪問者が現れる。夢とも現ともつかない寝入り端、コツコツと杉ドアをノックして私の邪魔をする。長い逡巡の末にドアを開けると円らな眼をした眼鏡の男が立っていた。私は無警戒にもその男を部屋に入れてしまうが、「随分他人行儀だな」と馴れ馴れしく言うその言いようからして相手はどうやら私を見知っているらしい。私にはしかし見覚えはなかった。
「おれだよおれ、忘れたのか?」と些か憮然として言うその男が昔年の知己の春信と分かり、旧交を温める聡志と春信。
翌日から二人は行を共にすることになるが、春信は春信でわだかまりを抱えていた。総ては一夜の出来事に端を発しているのだが、その顛末を聡志に打ち明けられぬ自分が情けなく、自身の変わり果てた姿を思うにつけ、快く迎え入れて好物の粒餡の大福で持て成してくれた聡志に顔向けができぬと恥じ入るのだった。
鮮明に脳裏にあるのは店を出てすぐ脇にある狭い路地の奥の、ゴミの散乱した電柱脇の何度となくほじくり返しては埋め戻した跡のあるデコボコの濡れ汚れた路上に、顔面半分を水溜まりに浸してゴミのように転がっている醜い死体の映像で、それより他は何も記憶にない。ないがしかし、それが自身の所行ということは間違いないのだった。
殺人者としての負い目から、この暗い穴ぐらで一日二拝三拝するような禁欲主義的なモンクの生活を心掛けているかといえばそうではなく、事実はその正反対でミシミシと軋む階段の響きの実に心地よい淫蕩な愉楽にどっぷり浸っているのだった。
二人は階段を直上る。
小説/literary fictions
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