Effluents from Tomokata=H

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十一段

その記憶から消し去りでもしてしまったかのように殆ど言葉というものを発することがなくなって笑顔も見せず無表情になっしてまった姉のサトミさんにつき従って三日間弟のハルノブの行方を求めて階段を下へと下りていくが、弟のハルノブの姿はどこにもなく永遠に落ち続けてでもいるかのように思えたが、弟を追い求めてひたすら下り続ける姉のサトミさんにいつまでもついて行くわけにもいかないので姉のサトミさんひとりあとに残すことが心配ではあったものの私たちには私たちの目的というほど確固たるものではないが思うところがあり、馬鹿と煙の謂いではないが上昇志向とでもいうより他ないようなものが内に消し去りがたく巣食っていてそれに突き上げられ押し上げられ、それにやはり上りの軋みと下りの軋みとの微妙だが決定的な差異が多分に影響してもいるのだろうが、それに背いて下降することに身を裂くというほど切迫しているというのではないもののある種の抗いがたい抵抗を感じもするため姉のサトミさんと別れて私と春信は上に上ることにし、曖昧に頭を下げて踊り場で見送る姉のサトミさんを残して再び上り始めて三日掛かって弟のハルノブの落ちた地点に到達し、そこから更に上を目指して上るが、その弟のハルノブの落ちた地点を通過する際に不意に弟のハルノブの落ちていく姿が脳裡に浮かび、というより眼前の階段の暗闇をスクリーンにして実にリアルに現前し、しかも実際には眼にし得なかったその顔の表情筋の微細な揺らぎや捻れや引き攣りまでが鮮明な画像となって映しだされ、その弟のハルノブのふたつの眼がじっと私を見据え、その口許は微かに緩んで笑みを浮かべてもいて、その笑みが私を誘うような笑みに思え、しかしその笑みに表された誘いが何か破滅を破綻をでも齎すような禍々しいものに思えたため何とか振り払おうと階段のえも言われぬ軋みに耳傾けるがそんなときに限って軋みの響きは耳遠く間遠になって艶かしい杉板壁の蠕動さえなく、上っている間中その顛落する弟のハルノブの嫌らしく歪曲された映像が離れることなくつき纏い取り縋って、その顛落する弟のハルノブの幻影を見ながら、いや見せられながらギシギシと階段を上っていると後ろから春信に袖を引かれるので「何だ」と言い様振り返るとそこにいるのは春信ではなく弟のハルノブで、宙に浮いた弟のハルノブが転がり落ちながら私の袖をグイグイと引っ張っており、道連れは敵わないとブルブル腕を打ち振って振り払おうとするが振り払う間もなく引き込まれて気がつくと私も宙に投げだされて弟のハルノブとともに落ちて、いや舞っており、必死に階段の縁に足を引っ掛けて着地しようと蜿きに蜿くが弟のハルノブの手が袖に絡みついてグイグイ引っ張り引き寄せるためにそれもならず、なかば諦めて力を抜くと舞っているという感じが更に一層弥増してまるで宇宙空間をでも漂っているような気がしてふと弟のハルノブを窺うとまるで落ちることを楽しんでいるかのような軋みの愉楽と等価だとでも言いたげな恍惚とした表情をその幼い顔に漲らせて私を見つめ、これこそこの階段の正しい利用法だというように軽く頷き、「それじゃ先に行ってますからゆっくり楽しんでから来てください」と言って私の手を一旦ギュッと強く握り締めてから離すとすうと滑るように下方に舞い落ちていってすぐに闇に覆い隠されて見えなくなるが、そこから先はいつもの落ちる夢と変わりなく、間もなく失速して人形のように無惨に階段の上に血まみれになって転がっているのを天井辺りから覗き込む恰好になって遣り切れない思いに満たされつつ眼が覚めるのだと思い、実際その通りに事態は進行していつもの通りに眼が覚めるが、思わぬ弟のハルノブの参加が些か夢を不快なものにしたものの全体としてはいつもの夢と変わりなく、従ってスルリと蒲団を抜けだしてそこに一緒に包み込むように蒲団を畳んで押入れに仕舞ってピシャリと襖を閉めてしまうとその夢の残滓断片はひとつ残らず何もかも綺麗サッパリ頭から消え去ったので早速朝食の支度に取り掛かると、その音に眼を覚ましたらしい春信が蓬髪をボリボリと掻き毟って白いフケを舞い散らせながら起きてきたので二人掛かりで支度をし、生放送のため忙しなくて内容が分かりにくくミスも目立つがそれをも巧みに笑いに転化し、しかもそれら大小様々のミスはある種前提となって最初から番組構成に組み込まれている嫌いがあるようにも見受けられて転んでも只では起きないと感心はするがただそれだけのことで糞面白くもないし観る価値などどこを穿ってもあるとは思えない朝の生番組を、ただ時間を確認するように一日の始まり起点の朝だということを体に認識させ体内時計の時差修正をするとでもいうように観るともなしに観ながらせっせと朝食を口に運び、また二人掛かりで後片づけをしたあともしばらくその糞面白くもない垂れ流しの無価値生番組を垂れ流しで無価値であるだけに途中でやめる切っ掛けを掴めないまま惰性でダラダラと観続けていたが、伸びをし欠伸をしながらの「そろそろ」という春信の言葉に促されて「ああ」とゆっくりと立ち上がって私も大きく伸びをし欠伸をして首を捻ってポキポキ鳴らし、右足親指で未練げもなくテレビを消してカメラに向かって媚びるような口調で何事か喋っているキャスターの顔がいびつに歪んで掻き消えるのを小気味よく思いつつ部屋の電気も消してガスよし水道よしと点検確認も怠りなく部屋をあとにして真っ暗い階段の踊り場の笠のない裸電球の下にまるでスポットライトでも浴びるようにして立って前後を塞ぐその真っ暗い闇を漫然と見つめていると、ふと弟のハルノブのフワフワと宙に漂いながらゆるゆる落ちていく夢にまで現れた印象的で美的だが刹那的でもある姿がすぐ後ろにあるような気がして振り返って下方の闇を覗き込むが何も見えず、そこにはただ深い闇があるばかりのいつもの階段なのだが、それでも何かが違うような気がして眼を凝らし耳をすましていると背後で「行くぞ」という春信の声が聞こえ、その春信が軋ませる階段の軋みがギシギシと鳴りだすのが聞こえて私の体を早くも歓喜陶酔に震わせるので春信に続いて春信の揺れる腰の辺りを眺めながらクッキリと木目の浮き上がった踏板を心地よくギシギシと軋゛ませて階段を上り始めるが、四人が二人に減ったためかその響きにはどこか勢いがなく濁ったような音で陶酔に至るまでにいつもより時間が掛かり、愈々昂り乗ってきたと思ったときにはすでに昼になっており、やむなく腹拵えのため踊り場の狭四畳半に上がり込んだが私と同様聡志もやはり不調を感じているらしいので午後の登攀は中止ということにしてそのままその部屋にとどまって体調を整えることにし、殆ど毎食後食べている粒餡の大福餅も控え目にして早々に床に就いたものの疲労度が不足しているせいかどうも寝つかれず何度も寝返りを打つうちに天井の辺りからヒソヒソと囁く声がしたかと思うとそれがだんだん近づき迫ってきて、耳元まで降りてくると言葉も一語一語ハッキリ聞き取れるようになり、別に聞きたいというわけではないが聞こえてしまうので何とはなしに聞いていると、それは私への恨みつらみに終始していてそれでそいつの正体が分かり、いや、天井から囁き声がした時点ですでにその正体は分かっていたはずで、それを認めたくないという思いが無意識的に働いて認識力の低下を齎したのかもしれないが、耳元でハッキリ言われてしまえば無意識の抵抗もそれまでで、深く沈めて頑丈に施錠していた記憶がまたたく間に浮上して現前し、つい昨日の出来事でもあるかのような顔をして割り込んできて、私はそれを見るまい聞くまいと眼を閉じ耳を塞ぎ寝返りを打ち蒲団を引っ被って眠りへと逃れようとするが、そいつはそれを見せよう聞かせようとどこまでも執拗に追いかけてきて罵りもあざけりも怨みもつらみも次第に過激になってそいつの顔から流れ出た真っ黒な血は蒲団に浸みこんでその罵りの重みと血の重みで私は押し潰され、苦しみ悶えて永遠とも思える長たらしい一夜を過ごして疲労しきって朝を向かえたその顔を見ると尋常ではなく、昨日にも増して不調で弛んだ箍がガタガタと不快な音を立てるようで終始打ち沈んでおり、夏の盛りに一晩置いた寿司を食べて美津恵も里美も覿面だったのが私ひとりケロリとしていたのを「野蛮な証拠だ」と言われたほど私の胃腸は頑丈なので何ともないがあるいは昨日食べた生牡蛎が当たったのかと思ったがどうもそうではないらしく、それとなく訊いても要領を得ず、発作みたいなものだから安静にしていればそのうち治まると言うのでしばらく登攀は中止にして養生することにしたものの、春信の容態は悪化するばかりで手の施しようもなく、私にはただ見守っている他どうすることもできないのだった。

それでも春信の言葉に嘘はなくしばらく粒餡の大福を一日平均十二個から三個にまで控えて休養を取ることで少しずつではあるが快方に向かい始め、二週間ほどしてどうにか登攀が可能なほどに体調も復して再出発も近いと夕食後、後片づけを済まして卓袱台に差し向かいに坐ってお茶を飲みつつ回復祝いにと粒餡の大福を中心に饅頭、本煉羊羹、どら焼、最中、団子、カステラと満腹の胃袋の隙間に滑り込ませるように食べながらその華々しい再出発の日取りをいつにするか相談しているそのとき、不意にミシミシとかなり大きな階段の軋みが鳴り響くのが聞こえ、ふたり同時にドアの方に首を捻ってもしや姉のサトミさんではとふたり同時に腰を浮かしたその弾みで卓袱台がガタリと傾きボテボテと大福、饅頭、羊羹、どら焼、最中、団子、カステラが次々と青畳の上に転げるのも構わず部屋を飛びだして狭い踊り場にふたり肩を並べて軋みの聞こえてくる下方の底深い闇に眼を凝らすと、最初チカチカモヤモヤと視覚のゴミのようにその底深い闇の中に浮かび上がった白黄色っぽいものが徐々に拡がり、それが電球の明かりだと明確に分かるほどになっても軋みだけがミシミシと鳴り響いて聞こえるだけでその下をこっちに移動している存在を捉えることはできず尚も眼を凝らしてその闇の底に浮かび上がるチカモヤの明かりを見ていると次第にその輪郭が現れてくるが、少しずつ背景と分離してハッキリとした輪郭として固定されていくことでそれが何か人に取り憑き取り殺すような霊異的な怪しげなものではなく確かに人だということを納得するのだが、音の拡散吸収が僅かで反響が大きいため異常に間近く聞こえる軋みに較べてその姿はまだまだ点のように小さく、その視覚と聴覚の甚だしいズレが認識の齟齬を齎しているのかもしれないがギシギシとえも言われぬ軋゛みを軋゛ませて上ってきているのが誰とも確認できず、しかしいくら複雑な反響に撹乱されて距離感が把捉できず測定できないとは言ってもその軋゛みの大きさは尋常ではなくひとりの人間の立て得るものとは思えないので、あるいは弟のハルノブが生きていてふたりともに上っているのでは、弟のハルノブの生還に歓喜しているからこんなにも心地いい軋゛みを軋゛ませることができるのではとその円らかな両の瞳をパチクリ輝かせて春信はパチクリ言い、まさかとは思うもののできればそうであってほしいと今やその六十ワットに照らされて確実に見える人の姿をじっと眺め入り、心地よく響き渡る軋みを耳にしつつ聡志と二人闇に閉ざされたほの暗い階段の踊り場の百ワットの下に佇んでその者が上ってくるのを待っていたのだが、次第に顕になったその姿はしかし姉のサトミさんのものではなく、ましてや弟のハルノブのものでもなく全く別人のもので、しかも二人ではなく三人で、その三人が足並み揃えて縦一列に行進するように上ってきているのだが、その三人は霊異でもなければ幻でもなく確かに紛れもない生きた人間で、少なくとも私にはそのように見え、その行進に合わせるかのようにミシミシミシと軽快に今まで聴いたこともないほど心地よい快楽的とも祝祭的とも頽廃的とも言える複雑微妙な至上の軋みをここぞとばかりに階段は上げ、三人はその響き渡り鳴り渡る快楽的とも祝祭的とも頽廃的とも虚無的とも言える至上至福の軋みに聴き惚れ、悦楽の極みだとでもいうように陶酔しきった顔を弛みに緩ませて今にも腰からくずおれそうになるのを必死で怺えて高く力強く腿を上げて響き渡る軋みに合わせて行進し、一歩一歩着実に踏板を踏んで一段一段確実に上っている階段のそのえもいわれぬ軋みに我々三人とも恍惚となりトウ然となって意識モウロウとして失神寸前昇天寸前の一歩間違えば小暗い闇のナラクの淵底へとテン落しかねないギリギリの状態ながらもなお力強く踏板を蹴りあげて上ることができるのは我々三人の強靭な連帯のタマモノで、全幅の信頼のもとに互いに支え合っていればこそ可能なのであり、その我々三人のそもそもの巡り逢いはグウ然といえばグウ然なのだがそれだけにほとんど運命的ともいえ、会った瞬間同じ匂い同じ性質同じ志を持った同志同類だと見抜いて互いに微笑み合い、その一時間後には肩組み合って町をカッ歩していたし、まるで十年のチキのように安酒を酌み交わしていたのだったが、しかしだからといってそれまでのヒカゲ者の生活が一八◯度グルリ変わって一挙に明るい日の下に出てその日を浴びて健康的な汗を流すフツウ人と何ら変わりない真っ当な生活ができるようになったというわけではなく、相変わらずコケにされ爪弾きにされて暗く湿ったヒカゲにいて強い日に当たれば忽ち干からびて死んでしまうミミズのように細々生きていたものの、それにひとり耐えているよりは三人結束して事に当たることで多少生きやすくなったことは確かだが、それにも限界があり、どのようにしてこの階段の噂を耳にしたのか、三人の誰がその情報を入手したのか、誰が最初にその決断を下したのかなどはすでに忘れてしまったが、とにかく逃げるようにこの階段に、というより縋るような祈るような思いでやって来たのだったが、それでもしばらくは真っ暗い闇を呈した階段に底知れない怖れを感じて怖じ気づいてその階段を横目に見ながらそのボロ荒れ果てた掘っ建て小屋に隠れ住んで今一度起死回生の立て直しができないものかと窺いカク策していたのだが、それも空しくト労に終って何の成果も上げられずおめおめと故郷に帰ることもできず、階段に最後の望みをすべて託してその踏板に足を乗せたのだったが、しばらくはコンクリートの何者をも寄せつけないような冷テツな響きに鉱物までも我々三人を拒み否定しハイ除しようとするのかと幻メツし悲タンにくれ、その無リョウとも無スウとも噂されるクドクもご利益も我々には何ひとつもたらされないのかと思って引き返そうかとも相談したのだが、結論を出すのはまだ早い今少しと上りつづけるうちにも階段がコンクリート製から木製へと変わってギチギチと鳴るその軋みを聴いた途端、うち震えるような感動をおぼぼえ子犬のようにフルフルと震え、なぜか分からないが淀みたまっていたヘドロのようなオリが残らずジョウ散して浄化されるような気がし、いや確かに何かが洗い流されていくのを感じ、一段上るごとに浄化の度は増すようにも思えて次々足を繰りだしていき、そのあまりの心地よさにトウ然となり夢中になって上りつづけ、ふと気がついて後ろを振り返ったときには下方はすでに闇につつまれて何も見えなかったが引き返す気などさらさらなく、前途に何がしかの希望らしきものがほの見えるような気もしてくると三人頷き合い抱き合って涙したのだった。

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