その言葉を聞いた途端に僕はその手を振り解き全速力で走りだした。捕まったらおしまいだと思った。何がおしまいなのか自分でもよく分からないけれどそう言ったときの文房具屋の親爺似の人の粘着性の笑みがとてもこの世のものとは思えずまるでゾンビか何かのように恐ろしいものに見えた。自分でも驚くくらいの反射神経で狭苦しい路地を走り抜けた。でもすぐに左足がもたついて思うように動かなくなってしまい僕はこのときほど自分の左足を恨めしく思ったことはなかった。佐藤にやられたんだった。あの怪獣公園で。後ろからひと蹴り。
僕は何度も後ろを振り返りながらその人が追いかけてきていないのを確かめようやく安心して走るのをやめる。呼吸を整えながら固く握り締めていた右手を開いてみるとそこには水色の紙に包まれた直径二センチくらいの飴玉がひとつあった。捨てようかとも思ったけれどとりあえずポケットに入れておいた。
僕の右手にはやんわりと握りしめられたときの両性類を思わせるぬめった掌の感触が粘っこく残っていていつまでも消えなかった。手を開いたり閉じたりすると糸を引いているような気がしてならなかった。ズボンのお尻に何度も何度も擦りつけたけれどそれでも僕の掌はねばねばしているような気がした。
それにしてもヒトサライって何のことだろう。初めて聞く言葉だ。
幾分風が強くなった。その風に乗って今どき珍しいパチンコ屋の軍艦マーチが聞こえてくる。風向きの関係で聞こえたり聞こえなかったりしてどうにも腑抜けた軍艦マーチになってしまっているのが何となくおかしかった。久し振りに自然な笑い方で笑った。
その軟体動物みたいなぐにゃぐにゃの軍艦マーチが聞こえてくる方にゲームセンターの電飾看板が見えた。それがだんだん僕の方に近づいてくる。それにつれて僕の足取りもだんだん早くなっていく。僕はゲームセンターの前を早足で通り過ぎる。横目でちらと窺うとセイフクを着たガクセイらしきものがいくつかうごめいてるのが見えた。ここを通るときには条件反射のように僕の心臓の動きは早くなった。ここでお金を取られた。何回も何回も。何事もなくゲームセンターの前を通り過ぎると僕の体は途端に軽くなったけれど百メートルを全力疾走したよりも何倍も疲れた。
後ろから声が掛かった。僕を呼んでいるらしかった。そっと振り返る。ガクセイ服を着た三つ子かと思うほど同じような顔つきの三人組みが立っている。何となく佐藤に似ているような気がした。三人はいかにも投げやりな感じで横一列に並んで立っている。その立ち方はどこか不自然で何かの支えなしでは倒れてしまいそうな変てこな立ち方でぐらぐら揺れているんだけれど三人とも何の支えもなしに立っている。僕はなるべく警戒させないようにと野生動物にでも近づくようにゆっくり足音もたてずに彼らに近づく。でもあんまり遅すぎると怒らせてしまう。微妙なとこだ。永年の感ていうやつかな。
(あんだろ)馴れ馴れしくひとりが言う。ないとは言えない。別のひとりがいきなり僕のポケットに手を突っ込んできた。出てきたのはさっき文房具屋の親爺似の人がくれた飴玉一個。三人はそれをじっと眺めながら何かひそひそ相談し始める。
(いいもん持ってんじゃんかよう)突然裏声みたいなふるえる声をひとりが発した。僕は最初何を言っているのか分からなかった。てっきり殴られるかと思っていたのにその飴玉一個で許してくれた。不思議だった。こんなことは初めてだ。僕は逃げるようにその場を立ち去った。極度の緊張のせいで何もかもパースが狂ってしまい歩くのさえ困難なくらいだったけれど呼び返される恐怖を思い何とか倒れることもなくそこから離れることができた。
[バカ][アホ][死ね]僕のどのキョウカショにも載っている言葉。僕のキョウカショにしか載っていない言葉。ゴキブリみたいに勝手に増えていく言葉。
<おまえ、いつ死ぬんだよ>と佐藤は言った。佐藤は笑っていた。僕も笑っていた。みんな死ねばいい。みんな殺してやる。皆殺しだ。特に佐藤は念入りに殺してやる。謝っても許してなんかやらない。
できるわけがなかった。死ぬのは僕だった。
また僕が現れた。もうひとりの僕は僕の少し前を時々僕の方をちらちら振り返りながら僕を誘導するようにゆっくり歩いている。すると突然前を行くもうひとりの僕の頭が小突かれでもしたようにガクンと落ち込み体が右の方に傾いだと思うとふらふらした足取りで路肩の方によりそのままそこにあるコンビニに入っていった。僕もあとから続いてコンビニに入る。もうひとりの僕は深刻な面持ちで何か漫画雑誌を二、三冊ぱらぱらと見たあと店内を隈なく点検するように棚にある商品をひとつひとつ物色しながら歩き回ってから缶ジュースを買った。僕ももうひとりの僕と同じコースを同じ時間をかけて辿り同じ缶ジュースを一本だけ買う。百六円。それを口にしてはじめて喉が渇いていたことに気がついた。ジュースは喉の奥にみるみる吸い込まれていった。僕がコンビ二を出たときにはもうひとりの僕はもういなかった。
目的の場所はもうすぐだ。百メートルほど先のT字路を右に曲がって三本目の電信柱を左に行けばいいだけだ。テレクラの看板広告が括りつけられているからすぐ分かる。ガッコウと呼ばれている所じゃない。ガッコウと呼ばれている所には少数のセンセイと呼ばれている人がいて大勢のセイトと呼ばれている人がいてジュギョウと呼ばれていることが行われている。飽きもせず毎日毎日毎日行われている。何もかも嘘っぱちだ。
いや嘘は僕の方だ。
<金貸してくれよ>と佐藤は言った。<すぐ返すからさ>それが最初だった。二千円。
小説/literary fictions