Effluents from Tomokata=H

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2009年上半期

06月

30日 あっちの本棚

22日 向かいの本棚

17日 捨てられない。

07日 テレビ

05月

19日 ケーキなど作っている場合ではない!

04月

29日 ゾウセツ……

03月

12日 やっちまったなあ

02月

14日 レシピの誤り

01月

26日 イメージに近づける

18日 七年

02日 謹賀新年

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2009年06月30日

あっちの本棚

本棚3

マンガはすらすら読めるが哲学思想系はなかなか読み進められない。だからこちらの棚にはまだいくらか余裕がある。

一冊抜けているのはジャック・デリダ『哲学の余白』下で現在読書中。ちょうど「繋辞の代補」を読み終えたところ。

言語学者バンヴェニストの『一般言語学の諸問題』内の「思考のカテゴリーと言語のカテゴリー」における分析を繙きながら、言語と哲学の、あるいは言語学と哲学の微妙な関係について分析している。

バンヴェニストはその分析に際していくつかの哲学概念を利用しているのだが、分析主体が用いるそれら哲学概念も、元を辿ればそこで分析対象となっているアリストテレスにまで行き着く。つまり分析対象が生みだした概念を用いて当の分析対象を分析するということになるわけで、そのかぎりにおいて、分析には慎重にならねばならないとデリダは言うのだ。そうした事態によって「一切の権威が奪われるというわけではない」(※1)としてはいるものの。

分析はさらに精緻になされるが、さしあたり本棚を晒すのが目的で本を紹介するのが目的ではないので、この辺でやめておく。こちらの浅薄な理解を露呈させて墓穴を掘るのもアレだし。興味のある方はご一読を。上下ともに3,990円で、合わせて7,980円。

※1 ジャック・デリダ 藤本一勇訳『哲学の余白』(下) 法政大学出版局 2008年2月25日/34頁

2009年06月22日

向かいの本棚

本棚2

またしても本棚の画像だが、こちらは小説ではなくマンガ。最近は少女マンガも読むようになった。書店ではなかなか手に取りにくいので、半分くらいはネット通販だろうか。いい年扱いたオッサンが女子高生に混じって物色などしていたら、盗撮と疑われそうだし。そういう意味ではネット通販というのはありがたい。

とはいえ少女マンガの情報にはまだまだ疎いので、幅広く読んでいるわけではない。アニメ化されたりドラマ化されたりすれば、そうしたものは比較的目につきやすいが、そうでないものはなかなか目に入らないというか、情報として届きにくいのだ。

そんなわけで面白そうなものがあったら躊躇わず読むようにはしているが、取りこぼしも多々あることだろう。というのも面白いかどうかは読んでみなければ分からないわけで、店頭でビニールに包まれたものを透視できない以上、その絵柄だけで判断することも難しく、手に取るまでに至らないことが多いからだ。巷で話題になっているからといってもそんなものは当てにならないし。然りとて数多ある雑誌に一通り目を通すことなどできるわけもない。どうしたものか。

因みにマンガは読書のうちには入れていない。

2009年06月17日

捨てられない。

本棚

以前に較べて本を読む量が減っている。集中力が落ちたのか、体力の問題か、読みたい本があまりないということもある。比較的難解なものが増えてすらすら読めないということもある。それでも少しずつ読んではいて、読み終われば当然書棚へ仕舞うことになるわけだが、すでに書棚は一杯で、収納するスペースがない。まったくない。隙間という隙間は埋まってしまっているのだ。

それでも納めようとすれば古いものを取りださなければならず、溢れたものはダンボールへ待避させることになるが、四箱あるそれももはや一杯だ。>

新たに書棚を買ったところでそれを置くスペースもない。思い切って処分してしまえばいいのだが、それはなかなかできない。

とはいえ、これまでに一冊も処分していないのかといえば、もちろんそんなことはなく、幾冊かは処分しているのだが、全体からすればほんの僅かな量にすぎない。

まあそれでも一室本で埋まっているわけではないし、ダンボールもまだ四箱で済んでいるのだから、今のところさして気にすることでもないのかもしれない。そうなったらそうなったで、そうなったときに考えよう。

2009年06月07日

テレビ

テレビ

うちのテレビはまだアナログ。しかも液晶でもプラズマでもなく、ブラウン管。それでも見るのには何の支障もないので、買い換えるつもりはない。多少ゴーストが出るが、それはテレビのせいではないし。デジタルにすればゴーストは出ないかもしれないが。

とにかくテレビを買い換える気はないのでアナログ放送終了に伴い、チューナーを設置するほかないわけだが、問題はどのタイミングで買うかだ。ギリギリでも構わないと言えば構わないのだが、アナログ放送の終了間際だと同じように直前になって購入しようとする人が殺到して品切れなどということにもなりそうなので、いくらか早めに用意したいところ。

まあ終了までにはまだ二年あるわけだから、それは来年になってから考えるとするか。

ところでクローゼットでダニが大量発生している。目下ダニシートで応戦中。

【お知らせ】

いつからか分からないが、しばらくレシピのページがアクセス不能になっていたらしい。メールにて知らせて頂いて気づいた次第。どうやらFTPで作業中にうっかりフォルダごとディレクトリを移動させてしまっていたらしい。そのためレシピ関係のファイルでURLが変わってしまい、エラーになったということだ。

大変ご迷惑をお掛け致しました。お知らせ下さった方には、この場を借りてお礼申し上げます。

2009年05月19日

ケーキなど作っている場合ではない!

なかなか小説が捗らない。というか全然書けない。ストーリーはなく支離滅裂で、事件など起きないし出来事らしい出来事もこれといってなく、今のところ会話らしい会話もない。時系列もめちゃくちゃだし場面展開も唐突で脈絡がない。だからどのように語を継いでゆけばいいのかまったく分からないし、先の展開もまるで予測がつかない。今にも切れそうな糸を手繰り寄せるような感じで何とももどかしい。そんなわけで一日数行しか書けないこともしばしば。

だからケーキなど作っている場合ではないのだ。いや作るけど。

ところで買ってから何年も放置していた岩波文庫の『椿説弓張月』をやっと読みはじめた。2001年に復刊されたものだが版はそのままらしく、漢字も旧字体なのでちょっと読みづらそうだと敬遠していたのだ。とはいえ馬琴の文体は漢文書下し調というか、分節の区切りが短く、七五調的なリズムもあり、馴れれば教科書で習うような和文体よりは余ほど読みやすい。弓の名手だという鎮西八郎源為朝が主人公だが、内容的には荒唐無稽も甚だしいエンタテインメントで、その序にも「事はその時代を考(かんがふ)るといへども、文はなほ山林の口氣を脱(まぬ(原文ママ))れず。これ婦幼の耳目に解し易からんが為なり。」(※1)とある通り。以下を読めばそれは一目瞭然だ(原文の文の区切りはすべて句点だが、一部を読点に変更し、漢字も大部分常用漢字に変更した)。

かくて式成(のりしげ)弓に矢つがい、満月のごとく引きしぼり、矢声をかけて切って發(はな)つを、為朝雌手(めて)に丁と取る。程もあらせず、則員(のりかず)がはなつ矢胸下(むなもと)ちかく飛来るを、是をも雄手(ゆんで)に受けとめたり。こは射損ぜし朽をしさよ、縦(たとひ)射ころすまでに至らずとも、やはこの度は取られじと、両人斉(ひと)しく引しぼり、しばし透間を窺て、よつ引票(弓偏に票)と發(はな)つ矢を、一條(ひとすじ)は袍(ほう)の袖に縫留めさせ、又一條は取るに間(いとま)なければ、口もて楚(しか)と食留めしか、忽地(たちまち)鏃(やじり)を噛碎(かみくだ)きつ。その疾(とき)こと陽炎(かぎろひ)の登るがごとく、雷電(いなづま)の閃(ひらめく)に似て、人間技ともおぼえねば、これを見るもの醉(え)へるがごとく、嘆賞あまりて声だに得揚(えあげ)ず。(※2)

このとき為朝十三歳。とはいえ恐らく数えだろうから、満で十二歳。矢を手で受け止めるどころか口で受け止めるという離れ技、第一回にしてこのハッタリだ。つづく第二回では二頭の子供の狼を手もなく手懐けてしまう。さらに第三回では早くも一頭が殺されてしまうのだが、切られた首が木に登り、主を狙う大蛇に食らいつくという、これはもうマンガとしか言いようがない。

『八犬伝』もそうだが、それほど敷居の高いものではなく、気楽に読める娯楽小説なのだ。そのわりにあまり読まれていないのは、上にも書いたように文章の問題があるのだろう。さらには現代風に翻案される機会が少なくなっているということもあるかもしれない。そうとすれば残念なことだ。

それでも馬琴などは一般に流通していて比較的入手も容易だからいい。人気の戯作者でもう一人忘れてはならないのが柳亭種彦だが、こちらのほうはその代表作『偐紫田舎源氏』が岩波文庫で出ているが、長く版が絶えている。そのため図書館か古書店で探すか、あるいは高額な古典文学全集などでしか目にすることができないという有り様だ。これはどうにかならないものか。

とここまで書いてから岩波書店のサイトを覗いてみたら『椿説弓張月』も品切重版未定になっていた。

※1 曲亭馬琴作・和田万吉校訂『椿説弓張月』(上巻)岩波文庫 2001年2月22日第10刷発行/13頁

※2 同上/20~21頁

2009年04月29日

ゾウセツ……

ようやく新しい内臓HDDを購入して取りつけた。外付けでも良かったのだが、設置スペースがないので内臓にした。とはいえすでに2台内臓しているので電源がなく、已むを得ず内臓MOの電源を使用することにした。MOはもうほとんど使用していないし、バックアップデバイスとしても用を為さなくなったので、外してしまっても問題はない。前のような凡ミスをせぬよう取りつけ作業には細心の注意を払った。

それを機にOSのほうもMac OS X10.3.9から最新の10.5.6にすることにした。ローカルで使用している分には10.3.9でもまったく困らないのだが、ネット環境で不便を感じることが増えてきて、ネットをやめることはできないので、以前から購入を考えてはいたのだ。

とはいえ、10.4を飛び越えてのバージョンアップになるので、これまで使用していたアプリが使用できるかどうか、いくらか不安だった。それはしかし杞憂だったらしく、ほとんどのアプリは正常に動作している様子なのでとりあえず安堵した。一部対応していないものはあるが、それらは追々新しいのに替えてゆくつもり。

ところで小説のほうだが、やっと五十枚くらい。──以下抜粋。

見馴れた光景に息を呑むとはしかし面妖で、それでもまるで見も知らぬ女の寝姿とそれは映り、規則正しいその寝息に引き込まれるようにそちらのほうへ寝返り打つと、いけません、と寝息の奥からいやにはっきりと、寝言とも思えぬほどの口吻で、もちろん寝言に違いないのだが、いけません、ともう一度、それが妙に艶(なまめ)かしく、とはいえそうきっぱりと拒絶されてしまえばそれ以上手も出せず、もとよりそのつもりはないにせよ禁止や拒絶の身振りが却ってその侵犯へと誘うということもあり、妙な斑気(むらき)に動かされて首を擡げると、いけません、とこれには拍子抜けして、というかツボに填り、一頻り声のない笑いが一室を満たすが、そのちょっとした空気の震えを感じたのかして、笑いごとじゃありません、と叱責の口調になり、そこに生真面目な気質が表れているようで、笑ってはいけないと思えば益々笑いが高じて怺えきれず声が洩れ、それにはしかし反応はなく、掠れた笑い声が如何にも弱々しく響きそして消えゆくなか、前より以上に際立ってくる寝息に包まれてまた微睡みのほうへ、というかここはすでに微睡みの内か、さっきまでベンチにいたはずなのに、そこで尻と膝との鬩ぎ合いが演じられていたのに、それはすでに遠く、つまりベンチのほうが微睡みの内なのか、どうもそうらしい、違うかもしれないが、まあ違っていようが違っていまいが四囲の様子に変化はなく、それを眺めるこちらの眼差しが変化したということか、翳ってもいないのにさっきより一段と暗さが勝り、静けさも一段と増した様子で、そうした要素は、暗いとか静かだとかいった、どちらかというと負の性質を帯びやすい要素は、この場を離れる切っ掛けとしては申し分ないのだが、勢いが足りないのか、すり鉢状に窪んだその際深部で、いやもうすり鉢状に窪んではいないが、見通しの利く、視界を遮るものもない広場の端で、何もない広場の端にあるベンチで、何を見ているのか何が見えるのか、というか何を見ているわけでもないし何が見えるのでもないが、それでも眼を開けている以上何かが見えてはいるわけで、その見えている何かが何なのか、それによって微睡みの内か否かも分かるのだろうか、分かったためしがあっただろうか、とにかく見えているものが何なのか、さしあたりそれをはっきりさせなければ、と見えているものを捉えようと凝らしたり眇(すが)めたり見開いたり瞬(まばた)いたり、をくり返しているうちに視界を横切る影が、眼球の動きに連動して動くそれはゴミのように目の前を浮遊して見ることを妨げ、決して焦点の合わない常にピンぼけのそれは右と左とでそれぞれ数個ずつ、日によって増減することもなく常に一定の数だけ存在しているが正確にいくつあるのかは分からず、というのも数えようと追い掛けると逃げてゆくからで、そうしてちぐはぐな動きでこちらを撹乱しつづけ、だから見えているものが何なのか、見えないものを見ようとしているとすればそれを見ることは叶わないのか、それでも尚見ようとするのはいったい誰の差し金か、(後略)

とまあ、こんな調子で延々つづいてゆくのだ。

2009年03月12日

やっちまったなあ

今使っているマシンのHDDは120GBが2台という構成になるが、これは最近のマシンに較べたら少ないほうだろう。それでもビデオ映像を取り込むわけでもなければテレビ放送を録画するわけでもなく、文章とイラストと写真くらいしか扱わないので容量的には充分なのだ。ただ、バックアップするとなるとちょっと手狭な感じがするので、もう一台増設したいと常々考えてはいた。

ところが最近はHDDも容量が増えてきて、増設しようにも古いマシンでは使えなくなっている。今使っているマシンでは137GBまでしか認識しないし、上記の理由から殊更大容量でなくても事足りるので、手頃な容量のHDDはないものかと探したが、ぜんぜん見当たらない。もっと早くに買っておくべきだったと今さら嘆いても詮ないが、そうなるともはや大容量を接続できるPCIカードをつけて大容量HDDを増設するよりほかなく、とりあえずそのPCIカードを購入してみた。UltraATAとSerialATAを接続できるヤツだ。

早速設置ようとしたところ、ケーブルがコネクタにうまく填らない。おかしいなと見てみたら、ケーブルの上下が逆というのか、反対というのか、間違って差し込んでしまっていた。ちょっと焦ったが、大丈夫そうだったので、正しく差し込み、起動してみる。しかし起動しなかった。やばいと思い、HDDを取り外してコネクタの差し込み部分を確認してみたら、ピンが一本なかった。よく見たら中にめり込んでいた。

そのHDDにはほとんどのデータが入っていて、小説もイラストも写真も、すべてそのHDDの中だ。そのデータの一部はもう1台のHDDにバックアップしているが、写真データはバックアップしていないので、それらデータが取り出せなかったらと思うと血の気が引いた。

とにかく復旧しなければともう一台の、無傷のほうのHDDにシステムをインストールして、そちらから起動することにした。損傷したHDDのめり込んだピンは、ニッパーで引っ張りだして見た目は一応元通りになったが、線自体が繋がっているかどうかは疑問。だからほとんど諦めていたが、起動してみたらすべてのボリュームがマウントされていた。フォルダもちゃんと開く。どうやら読み込みに支障はないらしい。一時はどうなるかと思ったが、データが取り出せるのならとりあえず問題はないと言っていい。後々どんな不具合が出てくるか分からないので予断は許さないが。

そこからがしかしまた大変で、真っさらのシステムに元の環境を再構築しなければならないのだ。各アプリケーションのデータ、メールのデータ、ブラウザのデータ、FTPのデータ等々、どこにあるのかと探し回った。コピペするだけで済むものはまだいいが、再インストールしなければならないアプリケーションもあり、プリンタ、スキャナ、ペンタブのドライバも再インストールだ。

まだ完全には復旧していないが、それでもほぼ元通りにはなった。とはいえ、初歩的なミスでデータを失ったら悔やんでも悔やみきれないところだ。とにかく早いとこ新しいHDDを購入しなければならない。

ところで書きかけの小説が全然捗らない。仕事をさぼってベンチに腰掛け微睡(まどろ)んでいる男の場面と前に書いたが、まだそのベンチでグダグダやっている。そろそろ三十枚くらいになるが、というかまだ三十枚にしかならないが、一向に先へ進まない。どうしたものか。

2009年02月14日

レシピの誤り

先日、レシピの記述に誤りがあるとのメールを頂いた。こういった指摘はたまに頂くが、本当にありがたいことだ。コンテンツが増えてくるとそのすべてに目を届かせることが難しくなり、何か誤りがあったとしても自分ではなかなか気づかないからだ。

早速指摘のあったページを確認してみたところ、しかしどこにも誤りは認められなかった。指摘があったのは分量についてだっだが、間違いなく記述の分量で作っているので、そのかぎりで誤りではないはずだ。

一応紙に書いた自筆のレシピを、それを使っていつも作っている大元のレシピを確認してみたが、ネット上のデータ、ローカルファイルのデータ、そのいずれともまったく同じだった。つまり複数あるデータのすべてにおいて一致したということだ。もちろん私自身の記憶ともそれらは一致している。ただ、それだけでは不充分かもしれないと思い、念のため参考にしたレシピ本の何冊かにも当たってみたが、記述が誤りであることを裏づけるようなものは確認できなかった。

頂いたメールは一行程度の簡潔な文章で、なぜ誤りと判断したのかということも書かれていなかったので、その理由は分からない。実際に作ってうまく行かなかったのか、数字だけを見て不審に思ったのか、あるいは作りにくい量だったために誤りと判断されたのかもしれない。いずれにせよ、こちらの誤りではなかったので安堵した。

とはいえ、どんなに些細なことでも指摘して頂くことそれ自体は本当にありがたいことで、それについては感謝している。明らかに誤りがあるのにも拘らず何も指摘されないことのほうが余ほど恐ろしく、そうなったらお終いだと思っている。

なので、お気づきの点があれば、気軽に指摘して頂きたい。

メールは送信フォームからのもので、且つメッセージのみのものだったため、返信のしようがなく、已むなくここで答えさせて頂いた。とはいえ、通りすがりに指摘しただけなのかもしれず、ここを見ているかどうかは分からないのだが。

2009年01月26日

イメージに近づける

長らく試行錯誤していたデジカメの設定なり画像補正なりだが、最近やっとイメージに近いものになってきた。すでにupしてしまった画像やまだupしていないものの撮影済みの画像は如何ともしがたいが、徐々にマシな画像になってゆくだろう。ダメな画像はいずれ撮り直したいが今のところその余裕はない。

それはそうとようやく新しい小説を書きはじめたが、二枚くらい書いて筆が止まった。仕事をさぼってベンチに腰掛け微睡(まどろ)んでいる男の場面だが、下手をするとそこへ少女が現れて、離婚した妻と暮らしているそれは男の娘で、みたいなベタな展開になりそうで怖い。いや、そんなふうにはならないだろうが、どう転がってゆくのかは見当もつかない。と、そう言っておきながら蓋を開けてみたらそうなってたりするかもしれないが。

いずれにしても前途多難だ。

2009年01月18日

七年

サイトを開設して七年が経った。七年経って何が変わったかというと、これといって何も変わっちゃいない。強いて言えば最近はケータイからのアクセスが増えているってことくらい。とにかく七年が過ぎたということだし八年目を迎えたということで、よく続いたものだと感慨も一入(ひとしお)だ。いや、続いたと言ってもマイペースに細々やって来ただけだから感慨と言ってもさして感慨を懐いているわけではないのだ。こういうときはそう書いておけば済むくらいなもので、大して意味はない。とはいえそう書いたことで、そうした心持ちになるということもいくらかはあるかもしれない、なかなかどうしてこれは感慨深いことなのかもしれないぞ、といった具合に。それはともかく七年は過ぎたということだ。あとどれくらい続けられるかそれは分からないが、まあしばらくは大丈夫だろう。

ところで下で書くと言っている小説だがまだ書きはじめていない。

2010年01月02日

謹賀新年

年も明けてしまったことだし、そろそろ次の小説を書くか、といって何も案はないのだが、まあ、大体いつもそんな感じで書きだしてから考えるというか、書きながら考えるというか、書く前からテーマだの何だのを用意することはなく、あとからそれを見出すというか、抑も何か意味のあるものを書こうとしているわけじゃなく、どちらかというと意味を削ぎ落とそうとしているくらいだから、先にテーマなり何なりがあったら却って邪魔になるというか、書きづらくなるかもしれないわけで、とはいえそれは何も持たずに山に登ろうとするようなもので、書きはじめる前は全然書ける気がしないのだが、それでも書きはじめなければ、いつまでも何も書けないので、書きはじめるよりほかないわけだし、とにかくどこでもいいから歩きだし、歩いていればそのうち何かに出会うこともあるだろうし、出会わなくても景色は移り変わってゆくはずで、いや同じところで足踏みしているだけかもしれないが、それでもそんなふうにして書いてゆくしかなく、どこに辿り着くかは分からないし、あるいはどこにも辿り着かないかもしれず、それでも構わない、というかむしろそれでいいと思っている、といったら言い過ぎか、とにかく書きはじめなければと思うのだが、そう簡単には行かないから厄介で、いずれにしても今年もゆるゆると、それこそ動いているのか止まっているのか分からないくらいにゆるゆると動きだすだろう、きっと。

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