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01

冷たい濡れタオルを「ご苦労様」と手渡されて「どうも」とそれを額に当てるといくらか紀子は生き返り、次いでよく冷えた烏龍茶を「どうぞ」と差しだされて首だけの辞儀で左手に持って一息で半分方飲み干せば、その途端腋に発汗を感じるが咽喉から胃に掛けての涼感のほうが遙かに勝り、そのようにして疲れと渇きを癒しつつ一件一件報告して四件回れなかった旨詫びると「ま、最初ですからね」と大目に見てくれるがスケジュールは守ってくれねば困ると端的に注意を受け、その調整に煩わされることを揶揄ってのことではしかしなくて本当に困惑したように信者らにとって延いては教団全体にとってそれは損益だとでもいうように駒井は言ったのだが、それに食って掛かって「こんな過密スケジュール無理ですってゼッタイ」と詰め寄ったのは半透明の恵美の霊で、恵美=マリア=皇太后の霊媒というそのどこか胡乱な概念の狂言廻しとして紀子を引き廻し結果過酷な労働を強いていることへのそれは引け目なのらしく、そのような結果になることを予期できず安易に引き受けてしまった軽率を悔やんでもいるらしく、紀子を宿主としてその眼前でしか存在し得ぬ自身の限局された存在様態に対しての深い嘆きと憤りからそれは発してもいるらしく、横から額のタオル越しに覗いてそう紀子は推察するがそうとは知らぬ駒井はその予期し得ぬ激昂に一瞬動じ、それでもすぐに立て直して「それは分かってますけど緊急を要してることでもありますし」何より教団の存続が掛かっているのだからと怯まず、教団の存続などどうでもよいとその利害の食い違いを紀子は口にしないが、地図を頼りに電車バスを乗り継いでの移動にひどく手間取ったことが予定を大幅に遅らせた要因ではないかと指摘し、途中道にさえ迷わねばこれほどの遅れはなかったと弁解して移動時間の短縮にはだから車が必要だしスケジュールを管理する人がいてくれると助かるのだがと訴えると「やっぱりマネージャーは必要ですか?」と駒井は言って「分かりました用意しておきます」と約束し、それならひとり心当たりがあると紀子が「適任だと思います、ねえ」と半透明の恵美の霊に振ると「と思います」と同意を示し、紀子の指示する氏名をメモしつつ「一応候補には」入れておくが採用するかどうかは保証の限りではないとしかし駒井は留保的で、それ以上の追及を拒むかに「それであの、マリア様ですけど、どうでした? 実際のとこ感触とか」と本題にシフトさせる。急に振られて戸惑いつつも半透明の恵美の霊を視認できる信者はごく僅かしかいないから訪れた小セミナーで必ずしも喜ばれたわけではなく、それでも見える見えないに関わりなく総じて恵美=マリアは好評で、批判的な受容のほとんど見られないのを不思議に思うほどだと紀子は述べ、次いで駒井は「ご本人としてはどうですか? その辺のところ」客観的に観察もできたのではと半透明の恵美の霊に訊けば、間近に見つめられたりするとただもう恥ずかしくて「観察なんて全然」そんな余裕はないと首を振り、自分はただそこにいるだけで何もせず紀子にばかり働かせているのが忍びなく、自分は「疲れも死にもしないからいいですけど紀子は」生身の体なのだからその辺気遣ってくれなければ霊媒も糞もないではないかと半透明の恵美の霊が言うと、「そうなんです」総ては紀子の一身に掛かっているのだから少しくらいは辛抱してもらわねばと却って駒井を奮い立たせてしまい、今も働いている捜索隊の労苦を思えばただ紹介して回るだけなのだからそれほど過酷でもないだろうと言われればそれまでだし、説法に不備があるのは自身認めているからその強化には労を惜しまないが現段階でそれを問われてもどうにもならぬから今は眼を瞑ってもらうとして、ただそれに続く質疑応答で思わぬ時間を食ってしまって「なかなか帰してくれないんです」と紀子が言えば、うちの信者は総じて「議論好きですから」と苦笑しつつそういうときは真面にやり合わず適当にあしらっておけばいいと駒井は言うが、それができぬから困るのだと紀子は訴えて何か巧い方法はないものかと訊けば、それでしたら「直接私のほうに問い合わせるよう言って下さい」と駒井は言う。

好意的な信者らから地固めしていくとしてもその手応えから恵美=マリア=皇太后への移行は割合スムースに行くのではと紀子は楽観するが、新参の者は別としても古参信者らの性情は熟知しているとの自負もあってかその内部事情にはより精通している駒井にすれば信者らの食いつきの好さを差し引いても紀子ほどには楽観できず、その焦りを隠すことなく恵美=マリアが全体好意的に受容されているのは畢竟メシア=天皇の受容が確立しているからで、そうとすればそれを引き継ぎ且つ越えるためには知恵美=メシア=天皇に匹敵するかそれ以上の秘蹟が必要だと説いてそのような兆候は見られぬかと頻りに駒井は訊くが、当の秘蹟の結果として存在している自分にそれに匹敵する能力などあるはずもないから秘蹟など「無理ですって」と困惑げに答えるのみで、そんなことはないと執拗な駒井に「いるだけでいいって」言っていたではないかと悲痛に訴えると「そうも言ってられないんです」とこれも悲痛に訴えて、たとえマリア=皇太后が好評だとしても一時的な盛り上がりにすぎないだろうから最終的にメシア=天皇のようにその基底部に据えることができねばそれへと信仰をシフトさせることは難しいのではとその危惧を言い、端的にそれは消息の知れぬだけに日々募る知恵美派の脅威に囚われてのことで、自身それを駒井は把握してもいるがその計画が着実に進行しつつあるかと思うと気が気じゃなく、それにも拘らず日々その意気を喪失していくかの捜索隊の面々には憤りを感じずにはいられず、だからこそ紀子にはそれ以上に奮闘してもらわねばならぬのだがその紀子がこのようでは先行きが危ぶまれると駒井は嘆くのだった。それがしかし妙に芝居染みているから素直には受け入れられぬもののその趣旨はよく分かるし納得もでき知恵美派の脅威という点ではその危機感を同じくしていて、あるいは自分を鼓舞する目的と思えなくもないからそれなりに傾聴して異を唱えることはせず、等しく駒井も過労なのだと濃いファンデーションの下に隠れる肌の荒れを透かし見るようにその苛つきを紀子は見てとりもしたから尚更混ぜっ返すようなことは言えず、秘蹟と駒井の言うその可能性について半透明の恵美の霊ともども真面目に考えてみるが、メシア=天皇のその灼かな霊験の顕れとしてのマリア=皇太后ということを考慮すれば何某か能力があって然るべきと思わぬではないものの当の知恵美にも問い糺したことはないからハッキリしたことは分からず、可能のような気もだからする一方で不可能にも思えていずれとも決せられぬまま思惟はズルズルと引き延ばされて同じところを循環するのみで一向前進せず、紀子のその果てもない思惟に終止符を打つかにその期待には多分答えられぬと唐突に横合いから身を乗りだして半透明の恵美の霊が言い、瞬間僅かに腰を浮かすが抑えて気息を整えてから「恵美さ…っていうかマリア様がそれじゃ成るものも」成らぬとその弱気を駒井は嘆き、信仰への熱い思いからか端的に日下八木への忠誠からか分からぬが涙さえ浮かべているのを眼にしてむしろ紀子は引いてしまう。仮にそれが意図してのものとしてもそうまでされては引き下がらざるを得ないだろうし、端的にその直截な物言いを反省もしたのだろう、否定的ながらも健闘はしてみると半透明の恵美の霊が付言してその場を収めると、それを受けて駒井も取り乱したことを詫びつつ何よりまず半透明の恵美の霊がその端緒を開き、その上で教団の側から助言なり助力なりするという形が望ましいと告げ、とはいえそうも言ってられぬ状況からすればとりあえず何某か仕込んでおくという意見もあって真の秘蹟の見出されるまでの方便とのそれは八木の案らしいが、それには日下が否定的らしく無理から秘蹟をでっち上げるというような詐欺紛いの行為は「できませんからねやっぱり」とマリア=皇太后の真の秘蹟の実現を我々としてはひたすら願う他ないので「是非ともマリア様には奮闘して」もらわねばと常の事務的な沈着を大きく逸脱してのそれは熱弁で、その尋常ではない高ぶりから知恵美の不在という事態の重要性を紀子は客観的に認識したように思い、恵美=マリア=皇太后の披露とその伝道という困難なだけに実り多くもあるだろう仕事を得て、それなりに着実な歩みをはじめたと自身いくらか前向きになったのをまた後ろ向きに戻されるような気がし、濡れタオルを裏返して当て直したり残りの烏龍茶を飲み干したりなどして虚しくそれに抗いつつ秘蹟の可能性にのみ紀子は意識を向けてそれへと沈潜していく。その実現に向けて鍵となるのはやはり知恵美をおいて他になく知恵美の媒介があって初めてそれは可能になると紀子は思い、あるいはその思いが知恵美に届けば可能かもしれぬと「聞いてる? 知恵美、そういうことだから頼みます」と紀子は思念を送るのだが、知恵美にそれが届いたとの確証はないから気の済むまで幾度も送信し続け、それが最大の障害とでも言わぬげにぬるくなった濡れタオルをテーブルに置いてさらにも送信し、烏龍茶を注ぎ足す駒井に礼する間も明日の予定とともにその詳細の説明を受ける間も送信は続け、今日の報告と明日の打ち合せを総て終了してそろそろ捜索隊が戻ってくる時間と告げられて半透明の恵美の霊とともに本部事務所をあとにしてもまだ送信をやめず、「何考えてんの? さっきから黙りこくってさ」と訊かれて送信している旨答えると「何だ早く言ってよそういうことは」とそれから半透明の恵美の霊も加わって二人して思念を送り、結局自宅マンションに帰り着くまで知恵美へ送信し続けたのだった。

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