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6 反旗

01

歩速を緩めて路肩に寄りながら宗教の恐ろしさをつくづく味わったと携帯越しに紀子は言い、そのようなところに誘った短慮は決定的で今さら抜けることもできないと思えば詫びて済むことじゃないがと半透明の恵美の霊に詫び、力尽きたというようにガードレールに腰掛けると携帯持つ手を投げだすように両腿の間に滑り込ませて項垂れてしまい、横並びに腰掛けた半透明の恵美の霊が最終的には自分も乗ったし紀子より乗り気になったしあの状況じゃ誰だって食いつかないはずないから「紀子が謝ることない」と言ってもその総ての元凶が自分ということに何ら変わりはないしその一点に荷重の総てが掛かってもくるから落ち込みは激しく、さらにも首を折り曲げて項垂れるが「お待たせしました」の声に辛うじて首を擡げると注文したスフレ・ア・ロランジュが置かれているのに気づき、型と同じ高さほどにも見事に膨れあがったキノコ状のスフレのその縁部分の稜線は際立つような鋭角で、その稜線に沿って綺麗についている焦げ色とその上にうっすらと掛かった粉糖とのコントラストがまた「いいっしょ」と横で半透明の恵美の霊が解説するのを注意することなく紀子は聞きながら、見惚れてというのではなくただ茫と眺めていると「何してんの? 萎んじゃうよ」と半透明の恵美の霊に窘められて手をつけ、そのときにはもう半分方萎んでいるが味に遜色はなく、諄くない甘さの中に淡く拡がるオレンジの風味に最前からの憂いの晴れることはないながらもそこに踏みとどまってそれ以上に落ち込むことはないのだった。遠大なそれこそ無限の時間の中にいる霊的存在でも待つ時間の長いことには変わりないのか、それとも人界にあることで人的な意識に影響してか半透明の恵美の霊の「遅いね」との言葉を意外に思いつつ「そだね」と時計を見れば約束に二〇分過ぎていて、何かあったのかと訝っているところへ携帯が鳴り、「先生だ」と確認しつつ出れば、何だか弁護士と急に会うことになったとかで来られぬらしく、ひどく恐縮した様子で「次は絶対」行くからと詫びる徳雄先生は抜きということになり、その旨連絡入れてから紀子は口中のオレンジ風味を消し去るようにコーヒーを飲み干すと『鉋屑』を出て吉岡の待つ居酒屋へ直行し、功次も友梨も同伴で常のように盛り上がるが、八木日下への蟠りが支えているせいかその僅かの不協和のために今いち心地好く酔えないしひとり置き去りにされた思いで、皆に追いつこうとピッチを上げたら急に酔いが廻ってきて、気づけば紀子の肩を抱く吉岡が右に半透明の恵美の霊が左にいるのみで、トイレにでも立ったのかと思うが二人同時にオシッコというのも変で、同性との連れションは茶飯でも異性との連れションはどこか淫猥な感じがするせいかあらぬ妄想に紀子は駆り立てられ、まず横並びに放尿する男と女のイメージが現れ、次いで互いに向き合いその性器を晒して互いの放尿を眺め合うイメージに変じ、さらには交互に尿を掛け合う男と女のイメージへという具合に徐々に倒錯的になって最終的に互いの口を便器に見立ててその口目掛けて放尿するイメージに至って打ち止めとなるが、あるいはトイレで事に及んでいるのかと転位して蓋をした便座に手をついて尻を突きだし立ったまま後ろから突き捲られるのを紀子は想像して酔いに火照った顔をさらにも赤らめ、「功次と友梨さんは?」と右の吉岡に訊けば「帰ったじゃん、さっき」と訝しげに眉間を皺寄せ、「えっ」と不審を洩らすと「知ってるくせに」と帰る二人に手を振っていたと吉岡は証言するが紀子にそのような記憶はなく、半透明の恵美の霊のほうに向き直って「ほんと?」と訊くと小首を傾げて「分かんない」と言い、「見てなかったの?」さらに紀子が訊けば「なかった」と済まなげに呟き、見てないはずはないのだが嘘とも思えず、もとより二人の席は眼の前にあるのだから席を立てば紀子も気づかぬはずはなく、紀子自身記憶にないのが不可解で何か巧妙な罠にでも掛けられているような気がしないでもないが、全体それは漠たるものに過ぎないし二人がいようといまいと大したことではなく、それでもどこか腑に落ちなくて意識に残留し続けているためか酔いは急速に醒めていく。功次と友梨の不在がその二人の獣のような激しく淫らなセックスを思い出させて紀子を幻惑させ、吉岡の何気ない動きにさえ過剰に反応してしまうのを紀子は抑止しようと半透明の恵美の霊のほうに顔を向ければ「あえどうひはお?」と含め煮の里芋をまるまる一個頬張りながら吉岡が覗き込み、間抜けた顔で顎を動かしているのを何か見知らぬ動物をでも見るように紀子は眺め、それでいくらか救われたようにまた向き直るがフェイントだったのか気づけば左肩に温(ぬく)い手の感触があり、唐突だが不快というのでもないからそのままにしていると緩く力を込めるその手で徐々に引き寄せられて吉岡に寄り掛かる恰好になり、その徳雄先生とも功次とも異なる吉岡の全体華奢な割に固く締まった筋肉の感触に僅かに違和を感じつつも凭れ掛かってしまうのを抑止し得ず、この前のように俗な展開に堕すことを忌避している反面なかば期待してもいて、その矛盾に紀子は戸惑いながらも端的に河井課長の残影の現出に対する怖れのために一歩を踏み出せぬことになるに違いないと思い、そうなれば互いに気拙いだろうからその前に回避せねばと時間を気にする身振りとともに「悪いけど今日は」帰る旨告げ、引き剥がすように吉岡の体からその身を離して卓に手をついて紀子が立ち掛けると「そう」とひどく残念がるが「じゃ送るよ」と吉岡は言ってジョッキに残ったビールを飲み干してから席を立ち、卓から離れて歩きだそうと紀子は足を踏みだすが急に足腰利かなくなったように縺れて巧く歩行できず、ピタリと後ろに貼りついて吉岡はそれを支えるが腰というより尻近くに置かれたその手は弄るように僅かに動きもし、それを意識しつつしかしさして紀子は不快に思うこともなく、バツ悪げな半透明の恵美の霊と苦笑を交わすが吉岡のするに任せてエスコートされながら無理と紀子は渋ったが運良く二台目で乗り込めた個人タクシーに並んで腰掛ければその膝元に吉岡の手は自然に置かれている。徐々に腿の内側へとそれが近づいていくのを紀子は意識しつつどうにも抵抗できぬのが不可解で、不快とか気が進まぬとかいうことではしかしなく、河井課長に蹂躙された忌まわしい記憶が一体どこに行ってしまったのかが何より不可解で、知恵美の灼かな霊験によってその記憶とそれに付帯するあらゆる紀子の感情の刻まれた脳細胞のネットワークが攪拌されてしまったのかそっくり根扱ぎにされてしまったのか出来事の一切が何の感情も懐くことなしに浮かび上がるだけで、まるで自分のものではないようなその手応えのなさに紀子は妙に恐ろしくなり、何か自分が自分じゃないような、誰とも知れぬ他人になってしまうような、いやすでになってしまったような漠たるしかし強固な不安に陥り、救いを求めるように吉岡にではなく半透明の恵美の霊に不安げな眼差しを向ければ「何、どうかしたの?」と覗き込んで訊くのは吉岡で、努めて平静に「平気平気」と言ったつもりが僅かに不安が漏出して具合悪いならひとり残して帰るのも不人情だと誘う切っ掛けを与えたような結果となり、裏目だか表目だかよく分からぬながらなるようになれと紀子は身を任せてしまい、以前のように道化たうえで総てを投げだすという素振りで交わすのではしかしなくて全く字義通りの自己放棄にそれは等しく、そのように抵抗力を失って流されるままの自分を一方で客観しながらそれが心地好いのか悪いのかも次第に分からなくなり、何もかも麻痺したようになってしかしその掌の感触だけはしっかりと感じながら紀子は吉岡に背押されて自宅マンション五〇五号室へと向かう。

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