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廿九段

聡志と智良

延々五時間喋り続けて総てを吐露し語り尽した、もうこれ以上は何も出てこないと虚脱して抜け殻のようになった春信に肩を貸して向かいの部屋まで送り届けて戻り、卓袱台の僅かな空間に肘を突いて坐っているマネキンのイクミ氏の横に腰を降ろして食べ掛けの牛ヒレ肉のステーキ二五〇グラムを食べようとナイフとフォークを取りはしたものの、両手にナイフとフォークを握り締めた途端に良からぬ想像が三つも四つも脳裡に浮かび上がってきて一人にしておくのはやはり危険だとまた立ち上がり掛かるのをマネキンのイクミ氏がシャツの袖口を掴んで引き止めるため辛うじて思いとどまって再び座蒲団に尻を据えるが、坐りが悪くどうにも落ち着かなくて牛ヒレ肉のステーキ二五〇グラムを食べても安定しないしお茶をがぶ飲みしてもしっくりせず煙草でも吸って気を紛らすしかないと立て続けに三本四本と吸ってもこれと言って変化もなく、他にすることと言えば寝ることくらいだと卓袱台を脇に寄せて押入れから蒲団を出して敷き延べて床に就くものの一向に眠れないしダメ押しに酒をそれこそ浴びるように飲んでもまるで効果もなければ酔いもせず、戸棚をひっくり返し掻き廻して見つけた睡眠薬を定量より幾分多めに服用してようやく眠りを得ることができるが万全の眠りとは到底言えず、甚だ不快な夢ばかりを立て続けにいくつも見た、いや見せられた挙句に例の夢へと落ちていき、いや漂っていくが、それまでの不快夢を引き摺っているためユラユラと呑気に漂っていられるはずはなく急速に落下し始め落下していると思ったその直後にはもうもんどり打って血飛沫上げて転がり落ちて辺り一体真っ黒い血で染め上げて不様に大破したマネキン人形に成り果てており、その予測を上廻る早過ぎる展開に唖然としてそれに不快を感じるよりも不安になって何かが狂いだしていると感じるがその何かが何なのかが分からず分からないためのこの不安なのだと思うと益々不安が募り、嫌な悪循環に陥ったとそこから逃れようと意識を他に向けようとするがまるで効果なく釘づけされたように離れることができず、だから不安は募るばかりで一向に解消されず一晩魘され通しで寝覚めも悪く、ハルノブ氏もサトシ氏と同様浅く短い不完全な睡眠しかとれなかったらしいのはその眼の下にクッキリと浮き上がった真っ黒い隈と焦点の定まらない虚ろな視線を見れば瞭然で、休息疲労回復どころか疲弊困憊してぐったり疲れきった様子で卓袱台に取りついて「旨い」と言いながらいかにも不味そうにマーガリンとりんごジャムを薄く塗ったトーストを齧るが、そのように肉体的にも精神的にも不安定な状態で階段を上ることができるとはとても思えないしこの疲弊状態が軋みによって癒され快癒するかどうかも危ぶまれ、あまつさえ軋みの愉楽を存分に味わうなどということは望むべくもなく、まだ無理だと再三言うのを「これがいちばん効果的なんだ。これに優る特効薬はない」と力説する春信に圧される形で登攀を再開するが、春信を気遣って私、春信、マネキンのイクミ氏の順に春信を挟み込む形で一列縦隊になってギシギシミシミシギシリギシリと階段を軋ませて上っていたのだったが、思っていたほどその軋みは不快でもなく至上至福とは言い兼ねるもののそこそこの愉楽を味わうことはできて些か安堵して上っていくが、音もしなければ叫びもなく僅かな空気の乱れさえ感じることもなく、だからまるで気がつかずにギシギシと鳴る軋゛みに陶然となって上り続けており、額にうっすら汗が滲んで腰から太股に掛けて程よく筋肉が張って疲労がいい具合に蓄積しつつあるのを感じて次の踊り場で小休止にしようと言って後ろを振り返って初めてマネキンのイクミ氏がいないのに気づき、「マネキンのイクミ氏は?」と言われて後ろを振り返ってはじめて私もそれに気づいて二人して大声で階段の底闇に向かって呼びかけてはみるものの私たちの声は夾雑的に反響するだけで何ひとつ返事はなく、マネキンのイクミ氏が忽然と姿を消してしまったことに驚くというよりは唖然として、私と春信は黄色っぽい電球に照らされた仄明るい踊り場にただ茫然と立ち尽して下方の闇を見つめていたが、私も聡志も忽然と階段の底闇に消え去ったマネキンのイクミ氏が再び現れて階段を上ってくるのを期待しているわけでもなければ行方を求めて下りていこうかどうしようかと逡巡しているわけでもなく、何も思考することなくただそこに立っているというだけの状態でしばらくその状態がつづいたが、それがどれほどの時間なのかはハッキリせず、というのは何も思考していないため意識が外界からの入力を無視していたために他ならないからだが、切っ掛けらしい切っ掛けもなければ明確な意思もなく殆ど無意識的に不意に体が動いて反転して脇のドアの把手を掴んで捻って廻し、ゆっくりした動作で密やかなドアの軋みとともに部屋の中に聡志が入っていくのにつづいて私も中に入って後ろ手に聡志にならって密やかにドアを閉め、貼りついたようにピッタリと足に密着している靴をバリバリと毟りとってそれまでの足のむくみが瞬時に解放されて滞っていた血流が濁流のように一挙に流れだすのにささやかな心地よさを覚えつつ上がり込み、疲労を露にして青畳に寝転んでいる聡志にならって私も身を横たえて青畳に頬を当て鼻を近づけてその匂いを嗅ぎ「畳はいいな」と呟くように独言すると、「ああ」と答えずともいい春信のその独呟に私は答えて無気力に寝返りを打って「落ちたのかな?」と呟くと「多分な」とやはり呟くように春信は言って寝返りを打ち、それきり二人とも電池が切れたように動かなくなるが眠ってしまったわけではなく、ただ何をするのも億劫に感じて眠ることさえ億劫で会話も思考も睡眠もなくつまりほぼ無に近い状態と言ってよく、この状態を維持し続ければいずれ悟りでも開けそうな気がしたがもちろん悟りに至ることはなく、二時間ほどが経過して不意に春信の起き上がる気配を感じたので続いて私も起き上がり、空腹なわけではないが夕食の時間だと支度に掛かり、それから一時間半後出来上がった品が総て卓袱台に並べられて食欲をそそり口中に唾液を分泌させる匂いと湯気とを上げているその筑前煮と奈良漬と蜆の味噌汁の前に姿勢悪く座してもまだ空腹には程遠いが、それでも皿に盛ってあるものは残さず胃に納めなければならないという固定的観念に毒されているため残らず綺麗に平らげ、手際よく後片づけも済ませてしまうともう何もすることもないと今度は蒲団を敷き詰めて明かりを消してそこに身を納めるが、いまだ濃厚に匂い立っている夕食の残香に入り交じるように仄かに杉の香りの漂う踊り場の部屋の闇の中で見えもしない天井板の木目を見定めようと眼を凝らしながら「いるか?」と訊くと、「誰が?」と訊き返すので「例の奴」と答えると「今はいない」と春信は言い、ゴソゴソと寝返りを打つ気配がしてこっちを向いたのか向こうを向いたのかは暗いので分からないが、話題を逸らすように「なんでみんな落ちるのかね?」と言う声の響き具合でこっちを向いているのが分かり、天井板から眼を離さず少しずつその木目が浮かび上がってくるのを尚も凝視しつつ「さあ」と曖昧に答えると、その「さあ」と答えるまでのごく短い時間に寝入ってしまったのか春信は何も言わず、だからそこで会話はプツリと途切れて私は尚も天井を凝視しているが闇に馴れてきた眼に天井の木目が浮き上がってハッキリとその形模様が視認できるようになるとそれがモゾモゾと不穏に動きだすようにも見えて、いや実際にモゾモゾと動きだしていて不快になったので眼を瞑って眠りが訪れるのを待つうちにもムラムラとそいつの気配が濃厚になってきそうな気がして不安になるが、辛うじてその前にそこまでの追撃は不可能であろう眠りへと、幸福だったとは言えないかもしれないが少なくとも平安ではあった美津子と智子とシゲヨシとの日々を夢見ることも可能な眠りへと逃れることができたのは何よりだ。

私の眼前にフワフワと漂うように浮いているマネキンのイクミ氏が宇宙遊泳でも楽しむように楽しげに笑い掛けてくるのに私も同様宇宙遊泳でも楽しむように漂いつつ笑みを返すとマネキンのイクミ氏は心持ち首を斜めに傾げて目線を上方へ流し、その目線に誘われて同様に心持ち首を斜めに傾げて上方を窺うとゆっくりと音もなくすうと柴犬似の雑種の犬が下降してきて「ご無沙汰です」と明るく声を掛けてくるのを「よお、元気だったか」と挨拶を返している傍から火星人のナオヨシ氏が後方からこれもフワフワと漂い流れてきて、更には弟のハルノブまでもがそのあとから漂い流れついて皆勢揃いしてフワフワと宙を漂っているその丁度中心に私がいて、私を囲うように一定の距離を保ちつつ即かず離れずに皆漂い流れており、その即かず離れずの微妙な距離感位置関係が堪らなく心地よく話も弾んで和やかな款談の一時を過ごしつつこの編隊漂流飛行がいつまでも続けばいいと思うもののやはりそういうわけにもいかず、皆それぞれに行くところ帰るところがあるらしく挨拶もそこそこにひとりふたりと来た方向へとまた漂い離れていってまた私ひとりになってしまうが殊更それが孤独でもなく、のんびりと宇宙遊泳でも楽しもうかと思っているとさっきより漂うスピードが増していてのんびり楽しんでなどいられる速度ではないのに気づき、気づくと更にスピードは増して漂うというよりは落ちているという感覚になり、落ちていると思うと同時に下方から舞台が迫り上がってくるように闇の中から何か悍しいものの出現ででもあるかのように階段が現出し、その階段の現出で幕が近いのを私は知るがそれを回避する手立てがないのも周知のことで、幾度も幾度も見せられて飽き飽きてしまった映画でも見るようでこれにはもう何の思いも快も不快もなく、無感動無反応のまるで他人の夢を垣間見覗き見ているかのように客観的に眺めているが、と言って分析的ではなくどちらかと言えば投げやりで無気力な態度に終始していて眼が覚めるのをただ待つのみだったが、今日に限ってなかなか結末に至らず、つまり階段と額の接触に続くもんどり打っての大廻転と血の洪水と着地後の天井付近からの臨死体験的鳥瞰視に至るまでの時間が無理に引き延ばされているように思え、そこに何か作為的なものを感じはするがそれが何かとまで考えることは億劫で、ただ成り行きに任せて眼の覚めるのを待つ他ないと辛抱強く待ってはいるもののいつまで待っても眼が覚めないので次第に苛立ち焦ってジタバタ蜿きだすが、それでも人形のように階段上に投げだされるという予定された展開には一向にならず、ただ階段の縁ギリギリのところを猛スピードで落ちているだけの状態が延々と続き、そのいつもと異なる展開に些か不安と緊張を覚えたものの代り映えのしないパターン化された毎度の展開にはいい加減うんざりしていたこともあってか、この新展開に僅かな期待と興奮がみぞおちの辺りからジワジワと湧出してくるのを感じてもおり、これから何が起きるのか昇天か顛墜か天国か地獄かと周囲に眼を配り注意を払って心待ち構えていると、背後にそれもすぐ間近に何者かの気配を感じて体を右廻りに反転させて階段に背を向けるようにクルリと向きを変えてその者を見定めようと眼を凝らして見ると、私と向かい合って私と同じスピードで階段の上を落ちているのは如何にも柔らかそうな細黒髪をサラサラと靡かせている十歳くらいの見目麗しいという形容がピッタリの色白の男の子だったが誰なのかは皆目分からず、いや智良なのは分かっているのだがなぜかこのときはそれが分からず、それを思い出そうとしているという演出で懸命に眼前にある私を見ているような見ていないようなその顔と記憶にある顔群とを照合してみるものの該当するものはなく、見も知らない者がこれほどハッキリと主要登場人物として夢に現れるはずはないと幾度も記憶との照合をしてはみるものの何度照合してみても眼前の顔に相当する顔を記憶から見出すことはできず、みぞおちの辺りに待機して版図拡大の機を狙っていた期待と興奮はそっくり不安と緊張に取って変わられ、更にここぞとばかりに一挙に攻め立ててくるその不安と緊張に忽ち全身を占拠されてしまうと体は硬直して身動きもできなくなるが、唯一眼球だけは意のままにできたので事の成り行きだけはしかと見届けようと眼をギョロ剥いてギョロギョロと動かして観察していると、眼前の細黒髪の見目麗しい色白の智良と分かってはいるのだが演出上誰だか分からないという設定のその男の子は急に不機嫌そうな顔になるが、それでもその見目麗しさは微塵も損なうことなく「ひどいな、忘れちゃったの? 一緒に来たじゃないか、一緒にさ」と言うとぐっと私の方にその見目麗しい不機嫌そうな顔を近づけてきて、「僕だけひとりにして帰っちゃってさ、ひどいよ」と見目麗しく不満げに言い、「ずいぶん探したんだよ」と言うそのソプラノの声にはやはり聞き覚えがあり、そこから手繰り寄せることができるかもしれないと今度はその声を幾度も幾度も記憶の篩に掛けてみるが夢の演出家には逆らえずやはり記憶は掬い取れず、眼前にいるこの細黒髪の見目麗しい色白の男の子が誰なのかは遂に分からなかった、いや智良と分かってはいるのだが夢の演出上の問題で分からないということにされており、その夢の主演男優の私は演技者としてそれに従わざるを得ず、それがどうにももどかしく腹立たしく苛立たしいのだがどうすることもできず、どうすることもできないままにその細黒髪の見目麗しい色白の男の子はひどく消沈した様子で「じゃあね」と言って退場し、というより突然姿を消すように気配をなくして消滅するとようやくいつもの血みどろのマネキン人形へと移行する気配が濃厚になって夢の終焉幕切れが間近なのを知るが、そのいつもの血飛沫散乱血みどろ夢が決して心地いいものではないにも拘らず幾分安堵を感じているのだった。

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