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五段

第一日目の夜から現れ出たそいつは以来ずっとつき纏って離れることなく眼の前に出てきてはジロリと睨みつけたり凄んだりして私を悩ませつづけ、あるときなど寝ている私の蒲団の左横に添い寝するように誰かが横たわっているのを美津子だと勘違いしていたが美津子がここにいるわけはないので誰かと不審に思って窺い見るとそいつで、額から鼻から口からダラダラ血を流しながらそいつは何事か言うのだが、聞きたくないと耳を塞いで右に寝返りを打てば右に現れ、また左を向けば左に現れ、部屋が悪いとそこを飛びだして軋みに陶然となる余裕もなく階段をひた上って別の部屋の床についても逃がしはしないとまた現れて悪態をつきぼろクソに言い、いたたまれずにまた部屋を替えてもついて来て夜通し詰りつづけるため、そいつから逃れるためか、あるいは追手から逃れるためか、それともそんなことはできはしないのだが自分自身から逃れるためか、その辺のところは自分でも分からないが、とにかく上を目指して上りつづけたのは一所にとどまっていることに耐えられず、ともすると幻覚や幻聴が襲いかかってきて気が違いそうになるからで、上りつづけることで辛うじて気を紛らせていたのだったが、いつかそれすらも煩瑣になり苦痛になって今では上る気力さえなく甘んじてそいつの罵りを受け入れてさえいるが、階段を下りるという気にはならないのはこの階段のミシミシという軋みの豊麗な響き、えも言われぬ淫蕩な響きに魅了されて麻薬的とも言えるこの上ない愉楽を感じているからに外ならず、さらにはあいつの罵り怨言呪詛がそのミシミシという軋みの豊麗な響き、えも言われぬ淫蕩な響きによって癒されもするからで、たとえ外界から遮断されて暗く闇に包まれていて言いようのない孤独寂寥に苛まれようともこの階段は逃亡者犯罪者隠遁者にとっては恰好の隠れ家と言ってよく、犯罪者隠遁者逃亡者であることを忘れてしまうほどここの生活はある意味で快適なのだが、難を言えばそのあまりの狭さと密閉性にしばしば無性に息苦しくなることがあり、日の光を浴びることもそれを覗き見ることさえできないと思うと、ただでさえ後ろ向きの隠遁者的逃亡者的犯罪者的低迷に落ち込みがちなのがさらに一層泥土の底にうち沈んでのたうち回ってそのまま狂い死にしそうに思え、そのように弱っているときに限ってそれにつけ込むように微細な傷口から侵入するウイルスか何かのようにいつの間にかあいつは姿を現してたっぷり呪詛怨言を吐いてとどめを刺そうとし、それにやられていっそのこと外に出てしまいたい強力な殺菌能のある明るい日の光に全身を曝したいという衝動に駆られたりもするが、それは殆ど発作的な衝動で実際に行動に移すまでには至らず、そういうときはひたすら階段を上ることに専念し没頭してえも言われぬ軋みの麻薬的な愉楽に歓喜することでいくらか気を紛らすことができ、そのようにして上るうちにも体は火照り軽く汗が吹き出てくると階段もそれに同調するように板壁杉が汗ばみ脈打っている気がしてき、ブヨブヨと弾力があって触ると同じ圧力で押し返されそうにも思えて何か巨大な生き物の内臓の中にでもいるような気になるが不快でも何でもなく、むしろそれに包まれていることで悪い血を吸うという蛭のように精神の汚穢が吸引されて癒されていくような気さえして、自分が人一人殴り殺して逃亡隠遁生活を余儀なくされている指名手配中の殺人犯であることも忘れ去ってひたすら人跡未到の僻地を行く孤高の探検家冒険家にでもなったような気になるが、そのすぐあとにまたあいつが現前して耳許で、いや、耳の中から直接鼓膜を震わせでもすようにいい気になるな何が冒険家だと悪意を込めて一言囁くと一挙に元の鬱屈した気分に押し戻されて逃亡者隠遁者犯罪者の行き場のない八方闇の閉塞状況に舞い戻り、そうなると前にも増してより一層自分が犯罪者で逃亡者で隠遁者なのだということが自覚され意識されて、そのような逃亡者で隠遁者で犯罪者の身で冒険者でも探検者でもない私がかつての親友に会して呑気に粒餡の大福餅などバクバク食べながら款語し笑語する資格があるかと言えば、ないと言う外なく、親友どころか友というのさえ烏滸がましいが、隠遁者で犯罪者で逃亡者の身なればこそ尚さらそのような存在に餓えていることも確かで少しでもいいからその時間を共有したいと思い言葉を交したいと思うのだが、思うに任せず出てくる言葉はぞんざいになり、ために聡志は表面的警戒を顕にしてうまく会話は進行せずデコボコ道を行くような有様で、淀み停滞し躓き後退してさんざん彷徨った挙句行き止まって往生しているうちにみるみる腐っていくのをどうすることもできず、唯一できることと言えば好物の粒餡の大福餅を親指と人差指と中指で軽く挟んでつまみ上げ、口に運んでモゴモゴと咀嚼することくらいだったが、そのように粒餡の大福餅をモゴモゴと咀嚼しながら部屋の様子を垣間見ると何やら懐古趣味的な装飾品が所狭しと置かれていて悪趣味とまでは言わないが狭い四畳半をさらにも狭息苦しくしており、それは聡志の好みらしく個人の趣味嗜好を兎や角言うつもりは更々なく大いに謳歌し惑溺埋没してもらって結構なのだが、それら懐古趣味的な装飾品の雑多な臭いに紛れて杉の香りが薄まってしまっているこの狭四畳半は私には息苦しくてどうにも居心地が悪く、無理に頼みこんでもっと広々として呼吸しやすい、私がここ二年近く使用している私の血肉と化していると言ってもいい部屋に連れて行ってその充満する杉の香にも負けないほどに匂い立つ青畳に尻を密着させて一服燻らせることでどうにか落ち着くことができ、ゆっくりじっくり話もできるようになって聡志から言葉を引きだすと聡志が階段を上りはじめたのは四年前ということなので私の三年あとにここに来たということになるが、私はこの付近に六年近く停滞しているが私が一年で到達した距離を四年も掛けているというのは随分ゆっくりしたほのぼのペースのようでもあるが、私のように何かから逃げているというのでなければそれくらいが平均なのかもしれず、訊くと一部屋に何日も泊まることがあると言うことで、何か物見遊山にでも来ているような悠々楽々とした日を送っているようにも思えてますます私の禍々しくも愚かしい過去を披歴することがためらわれ、聡志の饒舌に任せて聞き手に徹することでその場は何とか切り抜けやり過ごすが、そのような場当たり的対応がいつまでも通用するとは思えないし、そう思うそばからあいつの嫌味な声が耳奥から響いてきて呪詛怨言を繰りだしはじめ、それを押し隠すのに精一杯で外のことまで手も足も舌も回らないのだった。

二人が肩を並べるには幾分階段は狭いため相前後して行かざるを得ずそのようにして前を行く春信のあとについて踊り場ふたつ下にあるという求める部屋へとギシギシと軋゛む階段をギシギシと軋゛ませて下りていき、ギイと幾分甲高な軋みを立てるドアを引き開けつつ照れ臭そうに僅かに笑みを浮かべて「何にもないけど」と言う春信のあとから部屋に入ると春信の言葉通りそこには家具や生活用品の類いは殆どなく、流しにしても使用された形跡があるようには見えないし壁も床も真っ白で汚れひとつ染みひとつ傷ひとつなく、新築の匂いが濃厚なうえに杉の強烈な香りに満ちていて二年も住みついている部屋とは全く思えず「嘘だろう?」と思わず訊いてしまうが「嘘なもんか」と春信は些か憮然とした口調で言い、しかしそこはまるで空き部屋のようで一切生活感というものが感じられず、生きることそのものを拒んででもいるような気さえしたが、春信はその部屋に馴染んでいて部屋のほぼ中心に置いてあるやや小振りの卓袱台の前に春信が端座していると妙に納まりがよくごく普通の他と何ら変わりのない部屋のように見え、つまり春信がそこにスポリと納まることで何か穴ボコでも塞ぐように欠落部分が覆われて初めてその部屋が完全な全一体となるように見えるのが不思議でならず、この部屋と春信の関係がどのようになっているのかと常に観察の眼で見ているが特にこれといって特別密接な関係を見出すことはできず、春信の矢継ぎ早の問いに答えているうちに舌が暖まって廻転しだして止まらなくなり、昔のことをあれこれ穿り返して突つき廻すことに夢中になって話が尽きなかったために観察の眼は弛んだが、観察し得た限りでは春信にはどこか翳があり、ふと遠くを眺めてでもいるような眼をしたり何かに怯えてでもいるようだっりし、それを直隠しに隠そうとしているのにも気づき、そんな春信にかつての面影は微塵もなくまるで別人のように変り果ててしまっているために言われるまで気づかなかったのだが、唯一、瞬きの多さにその残滓が窺え円らな瞳をパチクリパチクリするその癖を手掛かりにして辿っていくことで辛うじてかつての春信を手許に手繰り寄せることができ、その像と眼前の像とをピッタリとはいかないまでも違和なく重ね合わせることができ、それでようやく眼の前にいるのがあの春信だとの実感を得ることができて安堵して緊張が解けてふと気がつくと十二時を廻っていてそのときになって夕食も食べていなかったことに気づき、気づいた途端に私と春信の腹がまるで示し合わせたようにほぼ同時にグウと鳴り、その胃内の空気が軽快に軋む音を聴いて初めて空腹を実感するが、しかし今更作る気にもなれなかったので菓子皿に残っていた粒餡の大福でごまかして風呂に入り、蒲団を並べて床に就いたが、何もないため広々と感じられはするが蒲団を二枚敷くとさすがに四畳半は一杯で途端に狭苦しくなって天井までがグンと近づいてきたように思え、そのため春信はなかなか寝つけないらしく押し殺した唸りを不快げに上げては何度となく寝返りを打っており、翌朝春信の魘されている声によって眼が覚めたのだが、そのあまりの魘されように驚き、黙って見過ごすこともできなかったので揺り起こしてどうしたのかと問い質すもののそのことには触れられたくないのか口籠って何も答えず、しばらく重苦しい空気が青畳の匂いや杉の香りを押し退けて部屋を満たすが、話したくないものを無理強いすることもないので「気にするな」とそつのないことを言ってその場は遣り過ごしたものの、それでもその重たい空気は杉の香りに絡まり纏わりつくように尚も停滞して窓もない完全な密室で換気ができないためだとでもいうようにその重たい空気はいつまでも杉の香りに縋りつくようにそこにとどまって霧消せず、それを吹き払いたい一心で殊更明るい話で間を繋ごうとするが、大概のことは話し尽してしまっていて昨日のように喋り捲って時を忘れるというようなこともなかったので気分を変えるため階段を上って別の部屋へ行こうということになり、早速支度に取り掛かるが、春信は壁に凭れ掛かっているばかりで何もしないのを不審に思って「支度しないのか」と訊くと、「支度も何も、荷物なんかひとつもないから」と言って何もない部屋をグルリと見廻して薄く笑い、ぼんやり宙の一点を見つめてパチクリやりながら私の支度が済むのを待ち、支度が済んだと眼顔で合図を送ると軽く頷いて億劫そうに立ち上がり、「じゃ行こうか」と言って先に出る春信のあとについて私も部屋を出るが、私の装備に較べて何の荷物もない身ひとつの春信は如何にも身軽なのだが、その足取りは私よりも重たげで終始笑顔を絶やさずにはいるものの何かを隠すために殊更それを装っているようにも見えるためか春信の立てる階段の軋みさえどことなく重苦しげに聞こえるうえに全身から何とも言えない悲愴感が、四十を越えたことによって世間並みの中年男の否応なく直面する悲哀悲壮とは異なる別の何かもっと深刻な要因によるらしく思える悲愴感が漂い、その悲愴感を拭い去るために上っているのだとでもいうように思えて見ていて何とも遣り切れず、一体何が春信をここまで変えてしまったのかと気になりはしたものの前を行く春信のユサユサと揺れる背中から腰を経て両内腿に至るやや箍が弛んできて張りのないラインを見ていると何も訊くなとでも言っているように思えたので黙ってあとについて上っていき、それが唯一自己の存在を知らしめるものだとでもいうようにミシミシと階段を軋ませて目的もなくただ階段を上り、途中踊り場で休息しては一服して一心地つくとまた上り、疲れるとまた休みということをくり返して一日階段を上りつづけたのは、それが何より精神的慰安を齎すからで、それは春信も同様らしく次第に頬を紅潮させて歓喜に噎んでギシギシと踏板を軋゛ませて上り、お互い上ることに専念してそれに充足してもいたので言葉を交すことも殆どなく、というのはそこでは言葉が軋みのえも言われぬ響きを阻害する夾雑的なものにしか思えず、何か喋っても途端に軋みと反響して嘘になってしまうように思えたからだし、軋みが言葉のようなものとなって、というより言葉そのものになって二人の間を響き渡るため喋る必要を感じていなかったからで、そのようにして上り続けて踊り場での三度目の一服のとき丁度二人の腹がまたグウとユニゾンで鳴り響いたのでそこのドアを開けて四畳半の部屋に入るが、中はまるで物置のような具合に乱雑無造作に積み上げられた雑多な物で溢れ返っていてちょっとした衝撃空気の乱れでも忽ち崩れ去ってしまいそうなほど微妙なバランスで均衡を保っているというような状態で、埃と黴と油性ペンキの混合したような匂いがツンと鼻をつくのを堪らなく懐かしく感じて何だろうと記憶を手繰っていくと家の裏の長らく私が秘密基地として使用していた物置のそれは匂いで懐かしいはずだとその物置でのあらゆる出来事思い出とともに思いきりその埃と黴と油性ペンキの混合したような匂いの空気を吸い込みながら上がり込もうとすると、後ろから春信が私の肩を掴んで引き止めるので振り返ると、春信にはこの部屋は居心地が悪いらしく不快げな眼つきで狭苦しげな室内を一瞥して「駄目だ他へ行こう」とあからさまに嫌悪して言うので仕方なく先へ行って別の春信好みの殺風景な味気ない部屋で鯖の味醂干しと奈良漬を食べ、そのあとの一服のとき家の裏の長らく私が秘密基地として使用していた物置の記憶の脇に付随していた廃墟と化した掘っ建て小屋での青々しい夜のことを何の気なしに口にすると、春信も懐かしそうに目を細めて好きな粒餡の大福を手に持ったまま食べるのも忘れてしばらく記憶を手繰っているようだった。

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