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その静寂を破るように背後から大きな溜息が洩れ聞こえ、わざとらしいその響きにつづいていつ来ても辛気臭いねここはと厭わしげに投げかける女の艶めいた声がすぐ耳許でし、その女よりいくらか年嵩に見えるが陰気で華奢な雰囲気がどこか通底するような座机の女はしかしすぐには視線をあげず、尚幾許かを書類に専心してから徐ろに顔をこちらへ向けると書類を煙草に持ち替え、といってそれを銜えるでもなく顎の辺りに翳して立ちのぼる煙の向こうからしばらく無言で眺めていた。長い沈黙のあとようやく自分のセリフだと気づいたまだ駆けだしの役者のような間の悪さで「あらどなた?」と座机の女が誰何すると横の女はふふんと鼻で笑い、真っ直ぐと座机のほうへ視線を向けながら「あなたの妹です、ご存知ありません?」と答えるが、事務的な口調にむしろ険があるその返答に臆すことなく「知らない、私に妹なんかいたっけ」と返すこれもひどく事務的な口調だから傍で見ていてひやひやするが、心底憎しみ合っているという雰囲気ではなく、単にじゃれ合っているだけなのらしくすぐと打ち解けた空気になる。尚しばらくつづくふたりのやりとりを遠巻きに眺めていたのは遠慮していたのではなく端的に関わりたくなかったからだが、なかば予期してはいたもののやはり向こうはそれを許してはくれず、不意に話頭がこちらへ転じて「何また知らない人連れてきたの?」ダメでしょうと子供でも叱るような口振りで座机の女が言い、その口の端には微かな笑いが見え隠れしていて何か捨て犬でも拾ってきたみたいなニュアンスが窺えるが、端的にそれは私を捨て犬並みに見做しているということだからいくらか不愉快になる。座机の指摘に同意するかにクスクスと忍び笑いを洩らしつつ「あら知らない人じゃないわよ、ねえ」とこちらのほうへ首を巡らして私たちは昵懇なんだからと意味ありげな微笑を横の女が浮かべると再度鼻に掛かった笑いの奥から「ウソばっかり」何もかもお見通しだというように座机は顎の前に翳していた煙草を唇で挟むと山と積まれた書類に視線を走らせ、それよりちょっと気になる症例があってね、見てよコレと一抱えもある書類の束を差しだすが、興味なさげに一瞥したのみで女はそれに触れもせず、「それってあたしのこと?」とわざとらしく首を傾げながら自律神経が失調していたのは先月までで今はもう快癒していると告げるが、あら、あなたのはもう手後れとかって話じゃなかったっけと書類に視線を落として座机は言い、すかさずあなたよりはマシよと横の女が返すが、そのどこか掛け合いの漫才めいたやりとりを聞くうちに緊張が解れ警戒も薄れていき、それがしかし向こうの狙いなのだということを意識して関わり合うなと自身に強く言い聞かせる。

ねえちょっとここ暑くないと座机の脚の辺りに置いてあるのか転げているのかエアコンのものらしいリモコンを女は手にとるとしげしげそれを眺めやり、次いで呆れたというようにそれを翳して液晶画面を見せながらドライだって暑いはずだと頓狂な声をあげれば、仕事には最適な設定だと思うけどと座机は意にも介さない。いつまでもこんなトコにいたらカビ生えてきちゃうと宙に漂うその胞子が見えるとでもいうように眉を顰めた女が行きましょうと促すその先にはもうひとつドアがあり,まだ先があるのかと訝りつつもそのあとに従うほかないが、ふたりの関係を掴みかねて曖昧な笑みを強張らせながら挨拶したものかどうか迷っていると「気をつけてね、その人ちょっとおかしいから」と座机が忠言し、振り向いたときにはすでに膝元に広げた書類に視線を戻してこちらへは関心を示さぬ様子で、一方こちらも同様な無関心を装いつつほら何してるのと顎で促し、仕事の邪魔しちゃ悪いでしょうと手招きするが、行きかけて不意に女は立ち止まり、もっと明るいところで読まないと眼を悪くすると小言めいてではなく心底心配げに座机に注意する。そうねともう手許の書類へと意識を集中しているせいか姉(?)は生返事するのみで、妹(?)はわずかに肩を竦めてドアを開けるとそのあとに従う糸杉に幾度か目配せを送り、いくらか警戒しながらも素直に女に従って書類を読むには光量が足りないもののそれ自体としては申し分ない明るさの居室から薄暗い冷え冷えとした通路へと身を滑らせると、ひんやりとした空気が首筋辺りを擦過するのを心地よいとは感じないそこはまたしても悪趣味な観音彫りで、左手に伸びたその先が微かな照明に青白く浮かびあがっているのが怪奇的なせいかそこへ赴くことをためらわせる。息苦しいのは狭いからか空気が澱んでいるからかただ酸素濃度が低いからか糸杉には分からないが、眩暈というのか吐き気というのかどうしようもなく沸き起こるそれは書き綴ることへの抵抗から発するらしく、つづきを書いたものかどうか考え倦ねてしまうがこの先糸杉を待ち受けるものが如何なるものであれそこにこそこの文を書かねばならぬ理由が隠されてあるのに違いないと思えばここで筆を置くわけにはいかず、狭暗い通路の息苦しさに尻込みする糸杉をどうあっても先へと進ませねばならないのだが、当の糸杉は一歩進むごとに前進への意欲を失いつつあり、幾度となく脳裡を過る引き返そうとの思念を片っ端から握り潰して女のあとに従わせることでどうにか次の室へと赴かせると、そこはやはり前の二室と同じ造りの簡素な室で、というより使い回しのセットのように似通っていて(註─「ように」ではなく明らかに使い回しなのだ、今になってそのことに気づいても遅すぎるのだが記しておいても無意味ではないだろう、敵の計略の一端くらいは拝めるかもしれないから)いくらか糸杉は戸惑う。

気配に気づいたらしくローテーブルに突っ伏していた男がムックリと起きあがり、眩しげに両の眼を細めて目の前に棒立ちの男を認めるとやおら睨み据えて「遅いじゃないか」いったいいつまで待たせるつもりか待ちくたびれて寝ちまったといくらか酔ってもいるらしく呂律の廻らぬ掠れ声で不機嫌に吐き捨てたのは港で、見知った人物が出てきていくらか安堵しながらも「なんで港さんがここにいるんです?」とその脈絡が掴めず少しくうろたえる(註─知人による拉致監禁だって充分にあり得るのだからここは疑って掛かるべきだが、不安の絶頂のなか現れた知人に安堵せぬ者はいないだろう。まったく巧い手を考えたものだ。いや、ただ月並みなだけか、そうでなければキャラの節約ということだろう)。無断欠勤について何より先に詫びを入れねばならないのに、その予期せぬ登場に疑念のほうが先に立ってそんなふうに問うてしまうのを港は気にとめるふうでもなく、むしろこちらの困惑する様を楽しんででもいるようにニタニタと相好を崩しているのはなかば以上酔いのせいに違いないが、常の港とはいくらか異なるその底気味の悪い含み笑いとともにオレは前からずっとここにいるさお前が来るずっと前からここでお前を待ってたのさ、主人公の登場するまで待機を余儀なくされる脇役のそれが哀しい性だからなどと笑えぬことを平気で口にする港に追従するだけの余裕はなく、佇立したまま何とも答えられずにいた。ゲフと大きな噫(おくび)をひとつ吐くとグラスに残る気の抜けたビールを港は不味そうに飲み干し、なかなか来ないから調べものをしていたとチラと横手を差し覗くその視線を辿ると、ローテーブルの端にボディの半分近くをはみ出させて今にも落ちそうな微妙な均衡でノートパソコンが起動されてあり(註─ネットは壊滅的だとたしか女は言っていたが、どうやらそれは嘘らしい。ブラウザには検索エンジンが接続されていた)、どこで何を調べていたのか知らないがさして興味もないから無視していると手許にそれを引き寄せていろいろ調べていたと再度言い、そのいかにも訊いてほしそうな素振りに仕方なく「何をです?」と訊くと「そら決まってるだろう、お前のことをだ」と港はニヤけるが、そんなこと調べてどうするのかと重ねて問う気はないながら全体何について調べていたのかちょっと気になりもして港がこちらのほうへ振り向ける液晶画面を視野の端に捉えつつ何か分かったのかと訊けば、分かったといえば分かったし分からないといえば分からないとはぐらかす。ただ興味深いこともなくはないと港は画面に表示させたデータをそれとなく示してここ三ヵ月の仕事の能率が前年のそれに比較して約七%低下していると指摘し、さらにここ三週間に限っていえば九・六%も低下しているとしたり顔で言い、身に覚えがあるだけに返答に窮していると「それはまあ、どうでもいいんだ」大した損失じゃない、それよりオレがここでお前を待っていることのほうがよっぽど損失だと破顔する。港が仕事のできる人材だとの話はついぞ聞かないが面と向かっては言えないから愛想笑いで流せば、追従と察したかして港はすぐと真顔に戻ってひとつ確認しておきたいことがあると上司の口調になるが、酔いによる顔面筋肉の弛緩は如何ともしがたく締まりのないツラで言われてもいまいち迫力に欠ける。全体些末なことをネチネチといつまでも穿(ほじく)り返す港の相手はそれだけで憂鬱なのに酒が入ったら輪を掛けて諄(くど)くなるから尚さらで、仕事の話ではないというから少しは気楽に構えられるものの仕事でなければ家庭内のいざこざが主たる話題だからそれはそれで厄介で、それでも聞く姿勢を保持していればいずれは解放されるからと耳を傾ければ、言いにくそうに港はちょっと間を置いてから「まあ坐れ」と顎で示し、女とともにその前に座すと「まあ飲め」とグラスを差しだすが、常なら即座に応じるところでもこの状況においては躊躇せざるを得ず、受けとるべきか否かで迷っているとああそうかお前はラガーだっけとひとり納得して手にしたアサヒ黒ラベルを女と自分のグラスにのみ注ぎ、ちょっと口をつけてグラスを置くと高橋の言っている未曾有の大惨事のことだがと港は切りだす。

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