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2006年09月

25日 胎児よ 胎児よ 何故踊る

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胎児よ 胎児よ 何故踊る

2006年09月25日

「ブウウ──ンンン」という音に目醒めた主人公私は、「岩乗な鉄の寝台」があるだけの「青黒い混凝土(コンクリート)の壁で囲まれた二間四方」の一室にいた。そして私は一切の記憶をなくしていた。そこは精神病棟の一室で、つまり私は患者としてそこに収容されていたわけだ。壁の向こう側から、つまり隣の病室から「お兄さま」という少女の叫びが聞こえてくるが、その声の主は自身を主人公私の許嫁だと訴える。

主人公私はいつくかの殺人事件に深く関係していて、その記憶を取り戻すことが真相の解明に不可欠という、いわゆる探偵小説の手法で物語が展開してゆくのだが、構想十年執筆十年というだけに、この夢野久作の『ドグラ・マグラ』という小説は一筋縄では行かない。「胎児の夢」とか「脳髄は物を考える処に非ず」とかいう晦渋なモチーフに多くのページが割かれているせいだ。

主人公私は、九州帝国大学法医学教授医学部長の若林鏡太郎(わかばやしきょうたろう)の導きにより、正木敬之(まさきけいし)博士の書いた論文やら遺書やらを読むことになる。その中に、上に挙げたモチーフが出てくるわけだが、かかるモチーフは、世代を超えて記憶が遺伝するという心理遺伝なるものを根拠づけるために用意されたものだ。

胎児は生命の進化の歴史をすべて記憶していて胎内でそれを夢見ている、ということを正木博士は提唱している。これはエルンスト・ヘッケルの反復説(個体発生は系統発生をくり返す)から想を得ているようだが、つまりそれは歴史の反復ということか。

そして意識の座としての脳だけが物を考えているのではなく、ひとつひとつの細胞もまた物を考えているという「脳髄論」だが、「脳髄が物を考えるという」考え方を突き詰めると「脳髄は物を考える処に非ず」という考えが生まれ、「その『考える処に非ず』をもう一つタタキ上げて行くと」「又もや最初の『物を考えるところ』に逆戻りして来る」というように、ここでも反復が見られる。

さらに主人公私は心理遺伝の発作によって幾度も殺戮をくり返し、若林博士の実験というか治療によって、大正十五年十一月二十日の一日を延々とくり返している。「ブウウ──ンンン」ではじまり「ブウウ──ンンン」で終わる一編の構造自体も反復を示唆している。

ことほど左様に至るところ反復が顔を出す。そうした反復する時間のうちに狂気が孕まれるということなのだろうが、それによって人に於ける自我や意識といったものの優位性を覆そうとしたのでもあろか。

西原和海の解題(ちくま文庫版)によると、久作は若い頃に禁治産者として精神病院送りにされそうになったということで、作中それが「キチガイ地獄外道祭文」という形で結晶していて、ここにも執拗なまでの反復形式が見られるわけだが、怨念というか執念というか、並々ならぬ思いを感じないだろうか。幸い久作は精神病院送りにならずに済んだのだが、親族によって実際に精神病院送りにされてしまった作家といえば言わずと知れたサド侯爵で、思えばサドの小説も非理性や狂気によって理性の欺瞞を暴く体のものではなかったか。

『ドグラ・マグラ』という一編それ自体がアンポンタン・ポカンという狂人の手記ということになっている。ということは正木博士や若林博士の理性もそのうちに含まれているということで、つまり非理性のうちに捉えられることによって理性それ自体が非理性と化してしまうという構造になっている。かかる非理性内理性によって非理性の全体像を見渡すことができなくなるのは道理で、読者はだからポカン君と同じように、延々と同じところを廻りつづけるしかない。

反復が人を狂わせるというと、古井由吉『忿翁』の「八人目の老人」が思いだされる。そこには「霧と氷雨に閉ざされた巴里の陋巷で姿かたちのそっくりな老人につぎつぎ、七人まで出会う」というボードレールの詩について触れながら「露わな反復の恐怖に心臓の停まるのを惧れて背を向けた」とある。『ドグラ・マグラ』の至るところに現れる反復もまた、読む者を狂気へと誘う、そうした反復にほかならない。

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