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雑記
miscellaneous notes
超越論的主観性
2006年06月10日
フッサールが面白い。といってフッサールの著作は『デカルト的省察』しか読んでないのだが、何かこう、感興を催せしめるというか、殊に創作に関わる事柄なのだが、いろいろと思うことがあったりして、最近気になっている。
創作というと、小説とマンガとが、私にはあるわけだが、この場合、刺戟を受けるのは小説に於いてで、フッサール現象学に何を感じたのかというと、端的に言って自分が小説に於いて表現せんとしているのは、フッサール現象学なのではないかということ。いや、それは言いすぎかもしれないが、少なくともフッサール現象学的なスタンスに共感するところがあるということはたしかで、意識や主観を軸にして世界を構成するというそのスタンスに、何がなし惹かれるのだ。
フッサール現象学についてはほとんど理解していないからごく大雑把な説明しかできないが、客観的世界の客観性は、意識によって、超越論的主観性の場で構成されるということで、すべての学の依拠するところのものとしてそれは打ち立てられているらしい。私の小説に於いても、意識なり主観なりが語りに於いて軸を為していて、とはいえ私の小説は客観的世界を描いているわけではなく、飽くまで主観的世界にすぎないので何らの客観性もそこにはないのだが。
まあ、観念小説なんかは往々にしてそういうものなのかもしれないし、観念小説と観念哲学とがどこかしら似ているというのも肯けなくはない。そういった意味で、もっとフッサールを読まねばならないなあと思うのだ。『論理学研究』とか『イデーン』とか。埴谷雄高がカントの著作に啓発せられたようにはいかないかもしれないが。カントのほうは『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』、『道徳形而上学原論』と岩波文庫で読んではいるが、フッサールに於いて感じたような興奮はなかったのだ。いずれが優れているかということではなく、相性というものがあるのだろう。殊に創作という側面に於いてはそうなのだろう。
面白いのは、マンガ表現に於いては上に記したようなことはほとんど感じられないということで、これは恐らく私のマンガリテラシーによるところが大きいかと思う。というのも、少年マンガ、青年マンガを主に読んできた関係上、マンガを描く際それらが準拠枠になっているからで、そして少年マンガ、青年マンガに於いては、意識や主観によって語る手法はあまり一般的ではないということなのだ。そうした手法が全く存在しないというわけではなかろうが、際立って前面に出てくるということは恐らくないだろう。それはむしろ少女マンガに於いて一般的なものと思われる。だからマンガを描くと客観描写が主になってしまい、かかる少女マンガ的な内面描写の入り込む余地はない。一方小説はその逆で、内面描写が主で、客観描写は影を潜めてしまう。不思議なものだ。
そういったわけで、Amazonで『イデーン』を注文、購入した次第。まだ、読んではいないが。有隣堂の紙カバーをして、デリダやラカンやフーコーやとともにそれは書棚に置いてある。