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雑記
miscellaneous notes
難儀な文体さ
2005年05月20日
ところがそうではないのだ。いや、十中八九そうに違いないと睨んでいるがやはりそうではないのだと煮つけた鰈の身を解して煮汁と絡めながら弥生はそれを否定し、尚幾許か煮汁のなかを転がしているうちに身がバラバラに崩れてしまうとそれには手をつけずにまた新たに身を解しに掛かり、そうしてしばらく弄んでいるがそれにも飽くと諦めたように細かな身を掬いあげては口へと運ぶのだったが半分も食べられず、残りは鍋に戻したもののきっと手をつけることなく傷んでしまうに違いなく、これまでそうやって何もかもをダメにしてしまい、これからもそうやって何もかもがダメになってしまうのだと弥生は腐ってゆく自分になかば酔いしれつつ洗いものを片づけるとフロを沸かして長々と湯船に浸かり、どうしても型から外すことができないゆるゆるムースは今も尚冷蔵庫の中段で冷やされているが一昼夜おいても状態にさしたる変化はなく、触ってみると指につかないから固まったと喜んでいたら型を傾けると傾けたほうへムース面が盛りあがり、つまり乾燥してできた表面の皮膜が下の液状ムースを押さえ込んでいるだけで傾きが臨界に達すると皮膜が破れてドロリとした液体が溢れ出てくるのだった。
今書いている小説の書きだしの部分から。このあと改行なしでこの三倍くらいつづくが、まだ決定稿じゃないので推敲過程で変わる可能性あり。とはいえこんな文体じゃ誰も読んではくれないだろう。かかる文体が読みの速度を遅延させることは分かっているし、そういった読みの速度を増すことにある種の享楽を見出しているマンガ等に拮抗し得ないということも承知している。そうと分かっていてもこんなふうにしか書けないのだから仕方がない。
ただ、本当にかかる文体でないと自分の表現したいものが表現できぬのかという問題はあって、もっと読まれやすい表現を模索する余地がないとは言えない。といって娯楽性を追求するつもりは毛頭ないし、かかる遅延にこそ小説の醍醐味はあるのではないかとも思うのだ。マンガのような速度を求めた時点でそれはもう小説とは異なる何かになってしまうような気がするのだ。それとも遅延しつつ速度を増すことが可能なのだろうか?
親指返した?
2005年05月15日
『親指さがし』(山田悠介原作、綾村切人作画)というマンガがある。同名小説をコミック化したものだが、小説のほうは読んでいない。
小説は純文系ばかりでエンタメ系にはあんまり興味がないもので。作画の綾村切人氏のペン画をべつのところで見たのだが、それがあまりにも凄かったので気になっていた。で、上記の本が出ていると知り、先日伊勢佐木町の有隣堂本店書籍館へ行った折に探してみたが、小説にしろマンガにしろ幻冬舎とは縁がないのでなかなか棚が見つからず、フロアをグルグル回ってしまった。まあ、なければネットで手に入れればいいと軽い気持ちだったが、幸い棚も見つかりマンガも置いてあったので首尾よく購入できたというわけ。
マンガは面白かった。内容的にはよくあるホラーなのだが、綾村氏の絵に、その凝った構図に惹きつけられた。トーンを使わない画風にも氏のこだわりを感じる。原作を読んでいないのでそれをどのように継承し、発展させ、変奏しているのか分からない。ただ原作にないキャラがひとりいて、そのキャラが襲われるシーンが、他のものに較べて鮮烈だったように思う。原作つきではなく、オリジナルのものを読みたくなったが、いくつかあるらしい短編も雑誌掲載のため未読。
『親指さがし』(幻冬舎/2005年1月 ISBN4-344-80511-9)
ショウジョノユメ(作者HP)