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雑記
miscellaneous notes
2004年11月
31日 何もしてない
22日 そうかそういうことだったのか
19日 とりあえずminiで
13日 メガネ、メガネ
09日 続 放置プレイ
03日 放置プレイ
01日 電車になんか乗っちゃダメさ
何もしてない
2004年12月31日
またしても例の描き掛けから。口の感じとか歯並びが気に入っていて、全体巧く描けたほうだが、髪の毛がいまいち描けていない。あまり線を多くするのもどうかと思うが、アニメ的な塊になってしまうのもちょっと嫌で、そういった迷いが線に出ているのがハッキリと見てとれる。
また場面が替わるごとにキャラの顔が微妙に違ってたりする。イラストとは勝手が違って戸惑うこと頻りだが、それはそれで面白くもあるし、色彩センスがあまり良くない私にはモノクロのマンガのほうがむしろ合っているのかもしれないと思わないでもない。いや、マンガの難しさは承知している。不用意にマンガなど描きはじめてしまったと少しく後悔しないでもない。なぜといってほかのことにまで手が廻らなくなってしまうからだ。だから筆なかばで凍結してしまったのだ。再開したいと思いつつも気が乗らない。
それどころか、このところ取り憑かれたようにCDを取り込む毎日でほかのことが手につかない状態だったりする。それではいかんと二週間ぶりくらいに小説を書こうとしたが、なかなか文章が頭に入ってこないので困った。全部取り込むまでダメかもしれない。
今年最後の更新だというのになんと低調な締め括り……。こんな調子で正月を明るく迎えられるのだろうか? いや、抑も正月は来るのだろうか。というか正月って何?
──それは君、コールマン髭を蓄えたずいぶんと立派な紳士だよ。
──そ、そうなんですか?
──ああ。君も幾度かテレビで眼にしたことがあると思うがね。目元の涼しげな好青年と言った風情で、至極穏やかな人だと聞く。尤ももう四十近いという話だが、全体若やいだ印象に溢れているのだね。長らく欧州で活動していたのが去年だか一昨年だか帰国したはずだよ。マスコミでも大々的に取りあげて、たしかテレビ中継などもされたと思うが。
──ああ、何ですか、見たような、見ないような気がします。
──うん。大々的にやっていたからね。近頃は結婚の話で持ちきりのようだ。
──結婚、ですか。
──ああ、何でも向こうで知り合った貴族の娘さんらしい。
──ああそれはお目出度いことで。
──うん、目出度いね。時局柄景気の悪い話ばかりで気も滅入ってしまうが、斯かるときこそ皆で明るく祝福したいものじゃあないかね。そうだろう、時宗くん。正月氏の輝かしい前途をだよ、祝福しようじゃないか。
──はあ、そうですね。
──どうした、時宗くん。前祝いにパアッとやろうじゃあないかね。何、金なら心配ない。ほら、これを見給え。
──あっ、それは……。えっ、でもどう為さったんで?
──何、あるところにはあるものさ。さあ行こう。そうだ、添島くんも呼ぼうじゃあないか。久しぶりに、三人で、うん、そうしよう。
──あ、いや、添島は……
──何だね。添島くんがどうかしたのかね。
──いえ、どうしたということはないのですが。何ですか、その、添島が、と言いますか添島には……
──まあいい。とにかく出掛けよう。こんなところに腐っていたら体にも毒だ。違うかね、時宗くん。
──僕は、べつに。
──いや、いかんよ、時宗くん。それではダメだ。そんなことではダメだよ。時宗くん。おい、どこへ行く。時宗くん。時宗くん。戻って来給え、時宗くん。
因みに何もしてないとは笙野頼子の小説名だが、ごく一部のエッセイを除き、これだけ持ってない。できれば単行本で読みたいところだが、もう文庫でしか入手できないかもしれない。いや、文庫すら怪しいかも……
そうかそういうことだったのか
そうかそういうことだったのか
比較的巧く描けたメガネっ娘(マウスオーバーでペン入れ画に)。全ページこの程度のレベルを維持したいのだが、なかなかそうも行かないのが現実というもの。マンガを描くと己の画力のなさが、これ以上ないというほどあからさまに露呈するからかなり凹むのだが、一方でそれは画力向上へ向けてのある種道標ともなるわけだから目を背けてはならず、確と見据えて自戒としつつ精進せねばならない。因みにセリフは実際のもの。字が汚いのはペンタブのせいと言っておく。
とはいえ描けないものがすぐに描けるようになるものでもなく、作業は遅々として進まない。反故に塗れて腐ってゆくばかり。腐臭の漂う自室に蹲って何か呪詛のようなものを頻りに呟いている彼はなかば人間ではないものへと変じていて、腐臭の元が彼なのか彼以外の何かなのかもう区別はつかなくなってしまった。そのうち何か禍々しい雄叫びめいた叫びがどこかで叫ばれ、四囲を震撼せしめたそれは遍く世界に轟き渡り、いよいよ世界は終焉の時を迎えると誰もが諦念とともに嘆くそのとき、まさに世界は生まれ変わるのだとぼんやりとながら彼は思うのだ。その彼の手には一匹のゴキブリが握られている。死しているのに尚それは六本の足を蠢かせ、その呪縛から逃れようとする。強く強く彼は拳を握りしめ、次いでその手を開くがそこには何もない。
そこには何もない。世界も、時間も、空間も、思惟も、何もかも。何もかも。あるのはただ言葉のみ。何もないと言って已まない言葉のみ。いや、言葉がある。すべては言葉から生まれる。思惟も、空間も、時間も、世界も、言葉から生まれる。だからすべてがここにはある。世界が、生まれた。いま、生まれた。
ほら、動いた。強く強く握りしめていた彼の拳の中の一匹のゴキブリが。艶やかなクリーム色の体液を滴らせながら。
あれ、そうなのか?
とりあえずminiで
2004年12月19日
買い物などに出掛けるときには大概CDウォークマンでジャズを聴いているのだが、ずいぶん前に買ったのをいまだに使いつづけているわけだ。最初のうちは何枚かCDを持って途中で入れ替えてたりしていたが、だんだん面倒臭くなって最近は一枚をリピートするだけになっている。それでもジョン・コルトレーン、セロニアス・モンク、エリック・ドルフィー、オーネット・コールマン等々、何回聴いても飽きないからあまり不便とも思っていなかった。コルトレーンの『アセンション』なんて1曲40分で、コンプリート・ヴァジョンは2ヴァージョン収録で80分だし、『ライヴ・イン・ジャパン』の「クレッセント」、「マイ・フェイヴァリット・シングス」になると60分近くあるが、延々聴きつづけたって退屈しないから不思議なくらいだ。
それはそうと最近、iPod miniを入手した(といっても貰ったんだが)。どんなものかと早速何枚かCDを読み込んでみた。読み込みはPCのiTunesで行い、それをiPodへ移すという行程だが、今までPCで音楽を聴くこともなかったので、iTunesを使う機会もほとんどなかった。CDを入れるとアプリが起動するがタイトルから曲名から表示され、前はこんなことなかったのにと不思議に思い、検索してみたらそれはGracenote CDDBのおかげらしい。音楽識別技術で、楽曲のアーティスト、タイトル、トラック名、ジャンル等々の各種情報のデータベースということだ。そこへアクセスしてデータを取得しているらしく、知らぬ間にずいぶんと便利になったものだ※。
フォーマットと音質をどうするかだが、量よりも質を重視するタイプなのでステレオビットレート320kbps、サンプルレート48.000KHzとし、MP3の使い道もないからAACで読み込んだ。アルバム1枚45分ほどで100MBほどになり、iPod miniの容量は4GBだからアルバム40枚くらい入る計算だ。手持ちのCDは400枚近くあるから一割程度しか入らないが、よく聴くものは限られているからそれだけあればとりあえず充分だろう。iPod miniへの転送もFireWireで頗る速い。
ただ、iTunes関連のファイルがあるのは起動ディスクのあるボリュームで、それが10GBのパーティションで残量が3.5GBくらいしかないからギリギリだ。そのうち別のボリュームにシステムを再インストールしなければならないかもしれない。と思っていたら環境設定を見るとデータは別の場所でもいいようなので、20GBの別ボリュームへ関連ファイルを移した。

これで遠慮なく使えると調子扱いて読み込んでいたらあっという間に4GB越えてしまった。とはいえ、20GBでも200枚くらいしか入らないわけだから、のびのび使うにはパーティションを仕切り直さねばならない。そうなるときちんとバックアップしなければならないから厄介だ。それは追々考えるとして今はiPodだ。
容量を超過してもプレイリストを複数用意して聴きたいものを適宜アップデートすれば問題ない。いっそのことアーティストごとにプレイリストを作ってもよく、そのほうがむしろ小回りが利くか。その際、環境設定で「選択したプレイリストのみ自動的にアップデート」あるいは「曲とプレイリストを手動で管理」のいずれかをチェックすればいい。
とはいえ、肝心なのは音で、それがダメなら話にならないが、聴いてみたらそんなに悪くない。これまで聴いていたものに較べて違和感があるとかそういうことも全然ない。
それに驚くほど小さい。本体それ自体がリモコンサイズと言っていい。連続再生時間が8時間で、もう少しあるといいのだが、その小ささからすればバッテリースペースも限られてるだろうから致し方ないというところか。インイヤータイプのイヤホンが付属しているのだが、これが私はダメで、長時間装着していると頭は痛くなるし吐き気はしてくるしで使えない。しかし今まで使用していた耳掛け式ヘッドホンだとちょっとコードが短く、長いのがあれば買い換えるがなければ延長コードが要るかもしれない。剥きだしのまま持ち歩いて傷がつくのもイヤだからいろいろとアクセサリも買わねばならない。
とにかく手にしてはじめてその利便性に気づいた次第。
※─Gracenote CDDBに誤りがあった。『CLIFFORD BROWN MEMORIAL ALBUM (COMPLETED)』(東芝EMI CJ28-5119)で、CDの1〜9の曲名が取得されたデータでは10〜18の曲名になっていて、CDの10〜18の曲名が取得されたデータでは1〜9の曲名になっている。一曲一曲確認したわけではないが別テイクが並びで収録されているから、取得されたデータの曲名が違うことは一聴して分かる。ほかにもあるかもしれないと思えば、データも迂闊に信用はできない。
メガネ、メガネ
2004年12月13日
難しいせいかイラストではほとんど描かないのだが、実はメガネとか好きだったりする。メガネそのものではなく、メガネを掛けた女性がだ。いわゆるメガネ萌えってヤツかね。記憶のなかでこの人と思い当たる節はないのだが、いつからかそうなっていて、それに気づいたのもわりと最近のことなのだ。といって、女教師とか秘書とかいった、いかにもな作りすぎのキャラにはあまり惹かれない。フツーな感じが良い。

因みに上は例の描き掛けだが、そのタイトルを『一般的利潤率の傾向的低下』という。これを描いていたとき『資本論』のその辺りを読んでいただけで、深い意味はない。
それにしても、ペン入れしたあとより下描きの段階のほうが線が生き生きしているから癪だ。
このところイラストがまるで描けず、小説のほうも八〇枚辺りで停滞している。そんななかでレシピだけは定期的に更新している。これじゃあレシピサイトだ。どっちがメインなんだか分からなくなってくる。いや、量的に見れば完全にメインを凌駕している。何とかせねば。でも、どうやって?
続 放置プレイ
2004年12月09日
これまた描き掛けマンガで申し訳ない。これはサイズ100%のもので、実寸にすると24×42ミリくらいか。靴が変だし手もいい加減で、背景の看板もまだできていない。こういう看板とか広告とかってけっこう面倒臭いのだが、それを描くか描かないかでリアリティーも変わってくるから案外手を抜けない。
その割りに資料はほとんど使わないから時間ばかり掛かる。しかもPC上だとかなり拡大できてしまうから、紙に描いているときよりも細かいところが気になって困る。チマチマといつまでも弄くっていてちっとも先へ進めないのだ。
このままお蔵にならなければいいのだが、あり得なくはない。
「ねえ、私のことどう思ってる?」
「どうって……」
「好き?」
「……あ、うん」
「愛してる?」
「……」
「ねえ、愛してる?」
「あ」
「愛してるって言って」
「あ、あぃい」
「え、聞こえない」
そんなセリフはない。
放置プレイ
2004年12月03日
描き掛けのマンガがひとつある。春頃に思い立って少しずつネームを描いていた。ネーム→下描き→ペン入れという行程の、ネームの段階からPCで描いたから紙は一切使用していない。いや、ラフ原画をプリントアウトはした。プリントアウトすると全ページを広げて確認できるし、そのほうが全体の把握には便がいい。
一応ネームは完成していて、ペン入れ途中のものが七枚ほど残っているが、もう半年くらい手をつけていない。右はペン入れを済ませたところからの抜粋。奥の女の子が主人公で手前は彼氏。
人物と背景は別レイヤで、直線、曲線はベジェで描いている(すべてペインタ上)。あまりゴチャゴチャするとイヤなので、ベジェは適宜統合してピクセルデータに変換している。フキダシは手書き。デジタル作画ではテンプレート化したフキダシだったりするが、あれは無機質な感じがしてどうも好かないのだ。キャラの内面を表示させるというのがその機能だとすれば、適当ではないような気がするのだ。その無機質な感じを逆に利用するということはあるにしても。
その割りにブラシはベタ塗りを使用して強弱のないフラットな線で描いている。個人的には入り抜きのある線のほうが味わいがあって好きなのだが、ペインタのペンブラシは入り抜きがうまく表現できないから仕方がない。きちんと入り抜きを表現できるマンガ専用のソフトもあるが、わざわざ買うつもりはない。
というか、マンガは難しい。コマ割りとか、構図とか、目線誘導のためのフキダシの位置とか。特にこのマンガはコマ割りが変則で、普通右から左へ読ませるところを部分的に左から右へ読ませたりしているから、フキダシの位置でずいぶん手間取った。週間連載なら20枚のネームを一日か二日で上げるのだろうが、とても真似できないよ。それを思うとプロの凄さを改めて思い知る。このネームにいったいどれだけ掛かったことか。
ペン入れが完了したらトーンの処理だが、今のところ作業を再開する予定はない。
電車になんか乗っちゃダメさ
2004年12月01日
『電車男』がネットで話題を呼び、出版されて売れてるらしい。そう言えば書店で平積みされた本を見たような気がする。今さらな気もしたが、気になったので読んでみた。まとめサイトでだ。本は買うまでもない。というか、掲示板の書き込みが元だし書籍もそれに準ずる形らしいから、それならブラウザで見たほうがオリジナルの雰囲気をより掴めるだろう。
本編を読んでから一渡り関連サイトも見てみたが、あれは完全にネタのようだ。そういえば読んでいるときも、いくつか描写に引っ掛かるところがあったような気がする。ただ、まとめサイトのものは編集されていたし、一気に読むとかかる客観的視点には立ちにくくなるという面もあり、さして疑念も懐かなかった。
電車男の語る話それ自体は、いわゆるダメ男(ここではアキバ系オタク)が清楚なお嬢様をゲットするというよくある告白ストーリーで、それだけを小説化しても箸にも棒にもかからない体の陳腐さだし文章もダメダメなんだが、それでもそのダメダメな文章がある種のリアリティーを感じさせるという面はある。ネタということを前提にしても、それなりに面白いと言っていい。
ただ、その面白さが何に起因しているかというと、電車男の文章の面白さではなく(これは全然面白くない)、その書き込みに対するスレ住人たちのレスだろう。そのレスにしても何割かは自作自演なのだろうが、エルメスへの告白を目指して一丸となっているところがなんだか微笑ましいというか、その盛り上がりはスレ上でリアルタイムに進行してゆく掲示板という形式によるもので、それと分かちがたく結びついていると思われる。つまり内容の面白さではなく、形式の面白さだ。内容だけを見たら本当にカスみたいなもので、どうでもいいって感じ。あれを読んで感動したなんて書いているのをネットで見掛けたりするが、ホントかよと首を傾げてしまう。まあ、ありきたりなストーリーに一風変わった形式というのは、エンタメ系で受けるパターンのような気はするが。あるいはパターンの組み合わせで易々と感動してしまういわゆるこれが動物化ってヤツなのか?
『電車男』には後日談があって、書籍化されていない部分もあり、本編を感動ものと捉えるなら窮めて蛇足的な後日談だが、私にはむしろ興味深かった。
奥手の電車男に焦れたエルメスが電車男を煽るというか、その気にさせておいて直前でお預けを食らわし、その様を掲示板に書かせるというエロ小説まがいの趣向で、それはつまり電車男及びスレ住人によって理想化されたエルメスが、現実の女として矮小化されてゆく過程になるわけだ。それはそれで徹底すれば面白いものになると思う。
電車男は、いや『電車男』というシナリオを書いた人物は、そこまで射程に入れていたのではないか。毒男(独身男性のことか?)らの描く理想を提示しておいてその足下を掬うという展開だったとしたら、一編はまた違った印象になったかもしれない。ただ、こちらの場合、スレ住人の反応が悪いので本編のような盛り上がりは全然ないし、そのなかで電車男はホテルを予約し、そこでのH報告をするとまで予告しているのだが、その先の書き込みもない。以後、重度の2ちゃんねらーだったはずの電車男はネットから姿を消す。
あるいは出版が決まって無駄な蛇足は要らぬと編集者に釘を刺されたのか? 純愛物語と銘打っている以上、せっかくの感動に水を差すようなものを書いたりしたら売れるものも売れなくなるからね。
おそらく電車男もエルメスも実在しない。フィクションとして売るのならまだしも、それがさも事実であるかのように謡うことは、やはり問題だと思う。著作権者が特定できない著作物の出版という側面も併せ考えると、ネット文学などと言って喜んではいられない。