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2004年06月

29日 描けそうな兆し……

01日 ぽちょむきんの弁証法

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描けそうな兆し……

2004年06月29日

ようやっとペインタの動作が安定してきた。一時は致命的なほどにも頻出していたシステムフリーズもしなくなり、どうにかこうにかイラスト制作を再開している。不安は拭いきれないものの探りを入れるようにしてちょっとずつ描いている。元々遅筆なのがさらにも遅くなっていつ仕上がるか予想もつかないが、とにかく描けそうな兆しが見えてきたとは言えそうだ。

人心地ついて一服しながらそんなふうに考えているフキオだが、その思念を目の当たりにでもしたかに冷ややかな一瞥とともに「ふんっ」と鼻で笑うソトコはもう四日も風呂に入っていない。とても臭うのだった。そう指摘すると自身の体をクンクンしてから「そうお」と平然と言ってのけるソトコはよいしょと言ってトイレに立つ。気づかぬうちに少しずつ贅肉を蓄えているその肉体は妙に艶めかしい動きでトイレへ移動するが臭いは執拗に居座りつづけ、それこそが、その臭いこそがソトコそれ自身なのだと主張して已まないのだった。

フキオは考えていた。いや何も考えてはいなかった。考えられないのだった。べつに無理して考える必要もないと考えるフキオはもう十日も風呂に入っていない。フキオはしかしソトコのように自身の体をクンクンしたりはしなかった。まだまだ描けるとフキオは思った。

ところで笙野頼子の新著が出た。挙って買うべし!

『片付けない作家と西の天狗』笙野頼子
(河出書房新社 2004 ISBN4-309-01640-5 0093)

ぽちょむきんの弁証法

2004年06月01日

「悪は正義を必要としないが、正義は常に悪を必要とする」

北道正幸の漫画『ぽちょむきん』を一言で表現するとそういうことになる。医者と患者に纏わるドイツの格言をもじったものとして東京都知事猪原玉緒がトレンジャー管理局局長雨鵺京四郎に言うセリフだ。今なぜ『ぽちょむきん』なのかと問われると困るが、最近妙に気になって仕方がないのだ。手に取り読み返すたびにハマっていくというのか、その面白さを再認識してなぜもっと話題にならなかったのだろうと思うのだ。

いわゆる戦隊ヒーローもの特撮ヒーローもののパロディの『ぽちょむきん』は、悪の秘密結社ゲルニッカーが正義のヒーロートレンジャーに滅ぼされてから14年後という設定で始まる。ヒーローもののパロディといえばタケちゃんマン、仮面ノリダー、結婚前提戦士ラブラブファイヤー等々と主にバラエティ番組のコントにおいてよく見られるものだが、漫画では寡聞にして安永航一郎の『県立地球防衛軍』『陸軍中野予備校』『巨乳ハンター』くらいしか知らない(東城和実『黒いチューリップ』というのがあるらしいが未見)。それらパロディはしかし概ね主人公が正義の側で元ネタに沿う形で描かれている。つぶさに調べたわけではなく自身の記憶のみに頼っているから案外そのような例もあるのかもしれないが、弱いヒーロー、ダメなヒーローという視点で笑いを取るのが普通だろう。『ぽちょむきん』はそれを反転させて悪の側に視点をおいて描いている。

トレンジャーによってゲルニック首領が倒されるとともに組織は壊滅するが、ゲルニックは最終怪人を残していて、それが一編の主人公の双子姉妹のハルカとマドカなわけだ。その保護者の漆崎辰五郎はかつてのゲルニッカー構成員で、その復興を目指して新ゲルニッカー軍団を立ち上げる。とはいえ肝心の最終怪人の姉妹がまだ怪人としては覚醒しておらず、変身能力さえないために怪人の着ぐるみで凌いでいるという体たらく。さらには漆崎(清掃担当)、菊池信之助(広報担当部長)、松沼鎮平(構成員食堂コック長)、山岸峯太郎(戦闘員寮管理人)と結集したかつての構成員らは悉く非戦闘員だ。

キャラ造形としては鳥山明『Dr スランプ』に少なからず依拠していて、「特許総合コンサルタント PATENT OFFICE漆崎」の所長という漆崎は、発明家の則巻千兵衛だし、人間離れした怪力を持つメガネっ娘のマドカは則巻アラレにほかならない。「吉祥寺のテコ入れ女王」の名を冠する漆崎の秘書大月茜はさしずめ山吹みどりといったところか。ただ『ぽちょむきん』においてはマドカや漆崎らのボケに対するツッコミとしてハルカを設定していて、それが『Dr スランプ』とは異なるところだ。固定ツッコミキャラという存在はひとりハルカだけではなく、東村山スポーツカメラマン金城高文とその助手八神カヲル(新トレンジャーレッド)に、猪原都知事とその秘書草凪と、ボケツッコミのコンビで配置されていることが多い。効率良く笑いを産出させるキャラ配置だが、要するにこれは漫才、あるいはコントの形式で、双子姉妹が恐るべき破壊力を持つ最終怪人なのにもかかわらずその変身能力の不在を理由に怪人の着ぐるみを着るところなどコントそのものと言っていい。

漆崎ら新ゲルニッカー軍団はハルカとマドカの怪人デビューを画策するが、着ぐるみを嫌って乗り気ではないハルカは元トレンジャーレッドを探しだして八百長を依頼する。妻も子供もいる元トレンジャーレッドの南城武はその依頼を断り、ハルカは已むなく自らヒーロー役をすることになる。南城から送られてきたヒーローアイテムを身につけ事に望むが、ヒーローサポート衛星「弥七」が起動し、たまたま居合わせた八神カヲルにヒーローのレッテルが貼られてしまう。その後次々と新たなヒーローが「弥七」に「見初められ」る。

ヘーゲル的弁証法に即して言えば、悪というものは主(あるじ)たる正義に使役せられる僕(しもべ)ということで、その意味で主体足り得ているわけだ。主たる正義を体現するヒーロー、トレンジャーにおよそ主体性が欠落しているのはそのためだ。作中トレンジャーが悪へと放つ攻撃なり必殺技なりが悉く偶発的なもので、トレンジャーに選ばれることも偶然で、それが幼稚園児であると犬であるとを問わないのも、その意味で必然なのだ。労働は僕のすることで主はただそこに存在してさえいればいいのだ。むしろ主は無能でなければならない。

如上の関係を踏まえれば悪が決して正義に勝つことができないのも当然の成り行きだ。つまり悪の為す悪事は正義を勝利へと導くことが前提されているわけで、またその意味においてしか悪はその存在を許されてもいないのだ。しかも僕が主を打ち倒して主の座についてしまえば最早僕ではないということになり、それは取りも直さず自らの主体性をも喪失してしまうということだ。つまりその主体性を保持しつづけるには、僕であるよりほかないのだ。

そこで問題なのは最終怪人という形で為そうとした首領ゲルニックの目的だが、正義の打倒にあるというよりはその関係の解消にあるように思える。主と僕という関係性それ自体を忌避しているようなのだ。正義に仕える悪という自らの存在様態に疑問を抱いたゲルニッカーは、一切を無に帰そうしているらしいのだ。そのために生み出されたのが最終怪人たるハルカとマドカの双子姉妹というわけだ。しかし正義に必要なのは自らに奉仕する悪ゲルニッカーであって正義を宙吊りにする悪ではない。ために猪原都知事はゲルニックの復活を急ぐわけだ。猪原都知事はいみじくも言っている、「戦わない怪人ほどヒーローにとってやっかいなものはない(第3巻第18話「血税で鴨鍋かも」)」と。つまり最終怪人とは戦うことを放棄した怪人ということで、ハルカとマドカが戦いに意欲的ではないのもそれで肯ける。その意味でこれは転向論だと見做し得る。

ヒーローと戦いそして敗れることが怪人を怪人として規定しているとすれば、最初から戦うことを封じられた怪人は怪人としての規定に反しているが、戦わねば敗れることはないしヒーローの勝利することもない。とはいえ悪を勝利へ導くこともまたあり得ないだろう。戦わずして、いや戦わぬからこそヒーローをヒーローの座に着かせないという構図。ゲルニッカーの生き残りの漆崎らが悉く非戦闘員なのも故なきことではないのだ。初詣に出掛けた漆崎の祈願にも端的にそれは窺える。「怪人である/ハルカとマドカが/いつまでも/幸せに暮らせる/世の中が/きますように。(第3巻第15話「世界征服祈願」)」。さらには「無計画の計画こそが、世を攪乱させ敵を陥れる最良の作戦」(同前)だと漆崎の言うように、漆崎ら新ゲルニッカー軍団は無自覚無計画にそれを行っているのだ。怪人としての使命を果たさぬことがその使命である最終怪人は、自らの存在を否定することでその存在を成り立たせている。その意味で最終怪人はトレンジャー対ゲルニッカーという対立構造の外部にあり、そのような外部=メタレベルに立つことで最終怪人は自由を獲得するかに見える。少なくともそれが笑いを成立させていることはたしかだ。

主の打倒を目指しつつ、それを遅延させつづけること。それが『ぽちょむきん』の作動原理なわけで、ストーリーの進展しないことがむしろそこでは希求されるのだ。主なり物語なりの内実が空虚だということをそれは証してもいて、ヒーローサポート衛星「弥七」に端的にそれは窺える。それがトレンジャーを制御しているという設定になっていて、その意味でトレンジャーという実体はただの入れ物にすぎず、まったく空虚な存在というわけだ。しかもそのシステムは壊れていて真面に機能していないらしいのだ。斯かる空虚な中心を目指す身振りこそ示すもののそこへ至ることは決してなく、その周縁を巡りつづけること。そこにこそ享楽があると『ぽちょむきん』は告げている。斯かる脱中心化の過程こそが『ぽちょむきん』の中心と言ってよく、ストーリーの遅延を嘆く読者なり編集部なりという構図も、斯かる享楽へ向けての指示項として意味を為すにすぎず、真に受けてはいけないはずだ。

抑もギャグ漫画というものは中心を指向するものではなく、中心からの逸脱を指向するものではなかったか。そこにおいて中心への指向はフリとして作用し、必然オチは別なところに見出されねばならない。抑もフリとしての中心には実体などなく、斯かる中心の不在を「笑い」へと転換するものこそギャグ漫画と呼ぶのではなかったか。そこに物語的完結などあり得ようはずはない。そして斯かる物語的完結を最初から拒んでいるのが『ぽちょむきん』なのだ。意図的にしろそうでないにしろ、作者がそのことに忠実であればあるほど、読者の期待の地平との乖離が甚だしくなるのもまた当然で、その意味では不本意な形で連載が終了せざるを得なかったのも肯ける。とはいえ、ギャグ漫画に本来的な意味での終わりなどないのだ。ただ外的な理由で終わりを迎えるだけで、それ自身の内的な理由による終わりなどあり得ない。というのもギャグ漫画には時間が存在しないからで、『サザエさん』にしろ『ドラえもん』にしろ『ちびまる子ちゃん』にしろ『クレヨンしんちゃん』にしろ常に同じ時間(円還的時間=カイロス的時間)を生きていて、その意味で彼らは死ぬことがない。

主の打倒を目指しつつ、それを遅延させつづけること。ギャグ漫画としての『ぽちょむきん』は斯かる規定のもとに無限に紡ぎだされることが可能なわけで、実際的にもそうあるべきなのだが、一編は徐々にシリアスな路線を露わにする傾向にあり、それがギャグ漫画としての遅延性を脅かしている。というのもシリアスな路線のストーリー漫画においては時間は直線的に流れ(クロノス的時間)、キャラクタは死すべき存在としてある。ギャグ漫画として始まり、ストーリー漫画として終わった鳥山明『ドラゴンボール』を見るとその変遷がよく分かる。その連載初期には則巻アラレなどが登場したりと前作『Dr スランプ』と世界を共有していたはずの『ドラゴンボール』だが、物語性の導入により(恐らくフリーザ編辺りから)カイロス的時間からクロノス的時間へとシフトしていく。登場人物も次々と死んでいき、何の理由もなく生き返ることはない。抑も『Dr スランプ』がギャグ漫画にもかかわらず表面的にはクロノス的時間を採用していて、登場人物が一年ごとに年を取り、読者と同じ実時間のうちにあった。とはいえ則巻アラレはロボットなので、その意味で死を免れているアラレ自身が無時間性のうちにあるためクロノス的時間の影響を受けずにいたわけだ。『ドラゴンボール』においても斯かるクロノス的時間が踏襲されていて、だからこそそこに物語性を導入することが為され得たわけだが、その結果『ドラゴンボール』はギャグ漫画ではあり得なくなった。というのもクロノス的時間とカイロス的時間の併置は、クロノス的時間によるカイロス的時間の囲い込みを齎すからだ。その意味で主(あるじ)たる物語性へと包摂されてしまう「笑い」は僕であるほかなく、そのことはまた主体が「笑い」の側にあることを意味している。

つまり『ぽちょむきん』はその内容だけではなく形式においても主客を転倒させているわけで、だからこそ「笑い」によって物語を脱臼させることが要求されもするのだ。その意味で『ぽちょむきん』における「笑い」のありようと最終怪人のありようとは相即な関係と言ってよく、ギャグ漫画でありながら物語性を導入した意味はそこにこそあるわけなのだが、それにもかかわらず、一編は「笑い」が犠牲にされかねないほどにシリアスな場面の比重が高まってくる。トレンジャー管理局に連れ込まれた八神カヲルが局長雨鵺京四郎に16年前のゲルニック首領上陸の映像を見せられる場面にそれは端的に窺える。そこではおよそギャグ漫画ではあり得ぬ殺戮場面がギャグとしてではなく描写されているのだ。その描写が後の展開に影響を及ぼさぬはずはなく、連続継起するクロノス的時間においては尚さら全体と繋がりを持ってしまい、それを圧してギャグを貫くには相当の強度を要するはず。

14年前、トレンジャーにより葬られようとしていたそのとき、「近い将来名前を変え」て「その姿を現す」それは「私であって私では」なく、「真の私は地下に眠っている」(第4巻第22話「ゲルニッカー首領の正体」)とゲルニックは漆崎ら四人の構成員に告げ、その地下に眠っていたのが最終怪人の二人、ハルカとマドカなのだ。ということは二人が変身するとゲルニック首領になるということになるが、果たしてそうなのだろうか? それ以前に二人は変身するのだろうか? そのとき二人は何と戦うことになるのか、トレンジャーか新たな首領か。「ゲルニック首領は、すべてを、終わらせようとしている」「自分で蒔いた種を、トレンジャーに刈り取らせるつもり」(第4巻第28話「小松崎茂氏追悼」)なのだと正義のスポンサーの京介の言うとおりだとすれば、二人はトレンジャーとなって新たな首領を倒すことになるかもしれない。単行本第4巻までで五人のトレンジャーのうち、レッド、ブラック、ピンクと三人までしか選定されておらず、残るブルーとグリーンの穴を埋めるめぼしいキャラも見当たらぬことからすれば充分それはあり得ることと思われる。ヒーローに嫉妬し「私が勝ったら私がヒーロー」と言って憚らない「目立ちたがり屋さん」(第2巻第14話「覚醒! 超高層の大変身」)のマドカにしてみれば念願成就といったところだが。

斯かる物語性の導入はしかしハルカ、マドカをしてヒーローへと転成せしめ、無限につづくはずの一編を中心=終焉へと向かわせてしまうことになりかねない。脱中心化の過程こそがその本質にほかならぬギャグ漫画としての『ぽちょむきん』にとって本来それは斥けねばならないはずの不要な要素のはずだ。恐らく作者はそのことに自覚的で物語性など一顧だにしていなかったはずだが、誤算があるとすれば読者のほうがそれに籠絡されてあらぬ期待を、何某か感動を齎すかもしれぬという不遜窮まる期待を掛けてしまったということだろう。その意味で『ほちょむきん』はその本質を理解しない読者によって葬られたのだと言っていい。とはいえ連載終了によって物語性を決定的に排することはできたわけで、その意味においては『ぽちょむきん』が最後までギャグ漫画としての構えを貫いたということはたしかだ。

単行本は4巻まで出ているが、未収録が第29話から第33話まで5話分あり、1巻あたり7話ずつの配分だからあと二回連載していれば5巻が出たのだと思うとちょっと悔やまれる。

『ぽちょむきん 1』(講談社/2000年08月)

『ぽちょむきん 2』(講談社/2001年03月)

『ぽちょむきん 3』(講談社/2001年11月)

『ぽちょむきん 4』(講談社/2002年05月)

Kitaprivate(作者HP)

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